月山富田城 (がっさんとだじょう) (月山城・富田城) (国の史跡・日本100名城65)
最寄地 島根県安来市広瀬町町帳752 2013.10.14 2018.5.11
月山富田城 (がっさんとだじょう) (月山城・富田城) (国の史跡・日本100名城65)
最寄地 島根県安来市広瀬町町帳752 2013.10.14 2018.5.11
登城ルート(緑は山中御殿/青は花の壇)
山中御殿跡
三の丸石垣
二の丸、本丸分岐道
二の丸跡・空堀
本丸跡
勝日高守神社
花の壇跡
富田城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高100m】
【案内・感想】 日本五代山城の一つで、標高183.8mの月山に築かれている。
「安来市立歴史資料館」(表記番地)南に道標があり、そこを左に入り約500m行くと駐車場が用意されている[マップコード109 097 304*20](地図)。
池、「軍用大井戸」や虎口石垣があり、よく手入れされている「山中御殿跡」に登る(地図)。山側は石垣をめぐらされ櫓跡がある。
東の「軍用道路」入口近くに「雑用井戸」がある。食い違い虎口を南に行くと、「七曲がり」と呼ばれる石畳の石段の軍用道路となり、「山吹井戸」があり600mほどの石段の道を登ると、階段状の三の丸跡石垣が良く残されている。
その南西に二の丸跡があり、遠くに中海、さらに日本海を望むことができる。石垣の堀切で隔てられた本丸跡がある。
本丸跡に年表看板や山中幸盛の石塔が立てられ、南端の石垣の一段高いところ(標高197m比高約100m)に「勝日高守(かつひたかもり)神社」が建てられ、大国主命が祀られている(築城以前から在ったと言われる)。
北に下ると、太鼓壇跡に「山中鹿之助」の合掌像が建てられ、「奥書院跡」(地図)に戦没者慰霊碑があり、南の「花ノ壇」曲輪に2棟の建物が復元されている(地図)。
「安来市立歴史資料館」の奥に「尼子興久墓」(経久の三男で領地の分け前の不満で父に背き、敗れ自害した)がある。
また、南西2㎞の国道432号線西に、尼子氏の祖・持久の墓がある[マップコード109 034 657*66](地図)。
昭和九年(1934年)1月22日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(65番)に選定された。
【尼子十旗】 尼子氏は、本拠地である月山富田城の防衛線として10の支城を築いて家臣団を配置した。白鹿城・三沢城・三刀屋城・赤穴城・牛尾城・高瀬城・神西城・熊野城・馬木城・大西城
【尼子十砦】 十旗と月山富田城を繋ぐ拠点として、築かれた10の城砦をいう。十神山城・神庭横山城・三笠山城・赤崎山城・安田要害山城・豊岡城・高守山城・高尾城・勝山城・寺山城
【歴史】 保元・平治の頃、「平景清が富田荘に来た時、八幡社を移して、築城した」との伝承がある。
承久三年(1221年)の承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府方を攻め北条政子に敗れた)の功により、佐々木義清が出雲・隠岐2国の守護となり、月山富田城に入った。
120年後の1341年(南朝:興国二年、北朝:暦応四年) 出雲源氏の惣領・塩冶髙貞が幕府の追討を受け、1343年(南朝:興国四年、北朝:康永二年)佐々木高氏(京極流)が守護となり、吉田厳覚を守護代とした。
厳覚は、山名時氏と戦って破れ、当城は山名氏領となった。1364年(南朝:正平十九年、北朝:貞治三年) 山名時氏は出雲国守護となり山名氏代々が歴任した。
1391年(南朝:元中八年、北朝:明徳二年) 山名満幸が、明徳の乱で敗れ、再び京極氏が守護となった。
明徳三年(1392年)京極高詮(たかのり)は、甥の尼子持久を守護代とし、代々歴任した。
文明十六年(1484年)守護代尼子経久が所領横領により追放され、塩谷掃部介が守護代となった。
文明十八年(1486年)尼子経久は、不意をついて当城を奪回した。(その後、尼子経久は月山富田城を拠点に勢力を拡大し、出雲の実質的守護となり、城域を拡大・整備した)。
天文六年(1537年)尼子経久は、孫詮久(晴久)に家督を譲った。
天文十年(1541年)経久が没し、天文十二年(1543年)大内・毛利連合軍に攻められるが、新宮党尼子国久らの奮戦により撃退した。
天文二十一年(1552年)尼子晴久は、足利義輝及び朝廷より山陰山陽八ヶ国守護、従五位下修理大夫に任命された。二年後晴久は新宮党を粛清した。
永禄三年(1560年)晴久が急死し、義久が家督を継いだ。
永禄八年(1565年)毛利氏の包囲を受け、籠城する。翌、永禄九年(1566年)兵糧が尽き、開城し、義久は捕らえられ、安芸国へ送致された。
城代として毛利家臣、福原貞俊、口羽通良が居城した。永禄十年(1567年)城代として天野隆重が居城した。
永禄十二年(1569年)尼子氏旧臣・山中幸盛ら尼子再興軍を促がして当城を攻めるも落ちず、翌元亀元年(1570年)毛利勢本隊の来援により、尼子再興軍は敗退した。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城に入城し松江藩が成立した。
慶長十六年(1611年)堀尾忠晴が完成した松江城に移り、廃城となった。