香春岳城 (かわらだけじょう)
最寄地 福岡県田川郡香春町採銅所6095 2016.5.17
香春岳城 (かわらだけじょう)
最寄地 福岡県田川郡香春町採銅所6095 2016.5.17
登城ルート
香春岳登山口
人枡遺跡(1)
人枡遺跡(2)
人枡遺跡(3)
二ノ岳頂上
二ノ岳頂上の首なし地蔵
二ノ岳より望む 一ノ岳・石灰採取所
香春岳城 人枡遺跡(1)(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高200m】
【感想】 香春町にある香春岳は3つの山から構成され、城跡があるのは一の岳と二の岳である。
そのうち一ノ岳にあった城跡は石灰採取で消滅し、標高500m程あったという山も半分の高さになっており、遠くからも白いテーブル状の山容が見られる。一ノ岳東の山腹には鬼ヶ城 がある。
二ノ岳(標高約466m)には仏像が祀られた祭祀遺構があり、北の三ノ岳に続く尾根に「人枡」と呼ばれる方形の土塁遺構が3ヶ所見られる。空堀、堀切は見られない。
【案内】 国道322号線「採銅所」交差点より西に120m行き左折、「香春町立採銅所小学校」(表記番地)を南に行き、右折し踏切を渡ると林道となる。
林道を2.2㎞行ったヘアピンカーブの先、五徳越峠付近に駐車場があり、三ノ岳登り口がある[マップコード96 671 660*45](地図)。
登り口より南東に行き登ると「10号」カーブの標識があり、三の岳と二の岳への登山道に分かれる。右の二の岳方面へ行くと、間もなく視界が開け左側に方形の土塁「(第10-1)人枡遺跡」がある。
150m南に同じく「(第10-2)人枡遺跡」があり、木製説明板がある。その先の立入禁止看板の手前を左に下ってゆくと「(第10-3)人枡遺跡」がある。
遊歩道を直進し800mほどゆくと、標高464mの二ノ岳に至る(地図)。頂上は岩場となり、最高所と南端に2体の仏像が祀られている。南端より採銅所が眼下に望める。そこから一の岳鞍部に行くことはできなかった。
【二ノ岳(香春岳城)遺跡】 現地説明板によると、16世紀代の無数の畝状竪堀や土塁を中心に掘立柱建物、門跡が12ヶ所確認され、長い土塁の基点に「人枡」と呼ばれるような、箱型の土塁が見られる。
【歴史】 天慶三年(940年)藤原純友により築城されたとされる。
天慶二年(939年)純友の乱が起き、天慶四年(941年)五月博多湾の戦いで小野好古の率いる官軍に敗れ、純友は伊予国へ敗れ逃亡し六月に追捕使に討たれたと云われる。天然の要害に守られ、難攻不落の城として知られ、交通の要衝でもあり、度々争奪戦の的となった。
平治二年(1160年)緒方惟義・維時、治承二年(1178年)宇都宮信房の家人香春庄司孝義、建長年間(1249~56年)香春判官友義、弘安年間(1278~88年)中尾兵部丞、正慶二年(1333年)北条高政と続いた。
建武年間(1334~36年)からは少弐頼尚・頼長・頼光の3代が続くが、応永元年(1394年)、千手信濃守興房によって滅ぼされ、応永五年(1398年)には興房が大内盛見によって討たれ、以後大内氏の家臣原田氏が在城し、豊前国の拠点となった。
大内氏が滅亡すると大友氏と毛利氏によって争奪戦が度々行われたが、毛利氏が九州から撤退し大友氏の属城となった。
しかし天正六年(1578年)耳川合戦で大友氏が大敗を喫すると小倉城主高橋鑑種が香春岳城を奪取した。
天正十四年(1586年)豊臣秀吉の九州征伐では高橋元種が香春岳城に籠もって黒田・毛利の先発隊を迎え撃ったが水の手を断たれて落城した。
慶長二十年(1615年)の廃城令により、廃城となった。