永山城 (ながやまじょう) (丸山城・月隈城)
所在地 大分県日田市丸山2‐3 2014.5.13
永山城 (ながやまじょう) (丸山城・月隈城)
所在地 大分県日田市丸山2‐3 2014.5.13
堀・石垣・塀
石垣・築地塀
月隈公園
横穴群
月隈神社
本丸石垣
本丸櫓台石垣
永山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 大分県立日田林工高等学校(日田市吹上町2‐80)の体育鑑が建てられ、比高20m余の月隈公園(表記番地)になっており、東側に駐車場がある[マップコード202 877 441*10] 。月隈城と通称があるが、誤りとされる。
南側には堀、石垣に築地塀が復元され、石橋が架けられている。正面山腹の横穴群は千数百年前の豪族の古墳と伝えられている。月隈神社が建てられている。
本丸には石垣が良く残っている。
【歴史】 豊富秀吉の家来、小川光氏は関ヶ原の戦いで西軍につき改易となったが、一柳氏の奔走もあって慶長六年(1601年)日田郡2万石を与えられ、月隈山に城を築いて丸山城と名付けた。
元和二年(1616年)石川忠総が6万石で日田藩に入封し、永山城と改めた。寛永十年(1633年)忠総は下総国佐倉に転封となり、領地は小笠原氏二藩(中津藩・杵築藩)の預り地となった。
寛永十六年(1639年)日田郡領は森藩領を除いて幕府直轄領として管理されるところとなり、初代代官に小川藤左衛門、小川九左衛門の二名が入領した(二人制)。
寛文五年(1665年)第二代小川代官の時、百姓一揆である日田騒動が起り、代官は改易となった。翌年新任の代官が送られるまで、肥後国熊本藩(細川綱利)の預り地となった。
貞享三年(1686年)からは、日田郡代が南に隣接する永山布政所(日田市丸山1丁目8)に於いて、九州各地の天領や九州各藩の目付を行った。
文化十四年(1817年)に代官に着任した塩谷大四郎正義の十九年間の善政を称えて、「陰徳倉碑」が建てられている。