下田中城 (しものたなかじょう)
所在地 兵庫県三田市下田中114 2019.4.14
下田中城 (しものたなかじょう)
所在地 兵庫県三田市下田中114 2019.4.14
神明神社
神明神社
武庫川の旧河道
下田中城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 三田市下田中の武庫川の蛇行した北側に城跡があったが、河道の直線化で消滅したという。
衛星写真で見ると鮮明に分かるが、神明神社の南に旧河道があり天然の堀の役目をはたしていたと思われ、現在は水田となっている。
【案内】 国道176号線「広瀬橋」南詰交差点より東に入り、70m東を右折して行った神明神社(表記番地)一帯が城跡とされる[マップコード155 163 320*72] 。曲輪や堀は消滅している。
【歴史】 下田中城に関する史料は少なく、築城に関する詳細は不明だが、もともとは北畠重政の居城であったようである。
永正八年年(1511年)八月、船岡山合戦で細川高国に敗れた細川澄元は阿波に逃れ再起を狙っていた。
永正十六年(1519年)池田久宗は摂津有馬郡にある下田中城に籠城、細川澄元軍の橋頭堡とした。細川高国軍は越水城の瓦林政頼、池田城の池田民部丞、山下城の塩川孫太郎に追討令を出したが、池田民部丞の寄せ手の中に久宗と内応するものがおり、事前に夜討ちが発覚し、下田中城方は十分な防備を整え高国軍を待ち構えた。深夜より雨が降りだし、暗闇で地理不案内も手伝い、首級30余りを討ち取られ高国方の敗戦に終わった。
この勝利に勢いづいた澄元軍は、阿波より兵庫と尼崎より上陸、越水城の合戦へ発展していく。
その後、下田中城は再び北畠氏に復したようだが、天文年間(1532~55年)に荒木村重によって滅ぼされ、下田中城も兵火により廃城となったと考えられている。