八幡山城 (はちまんやまじょう)
所在地 滋賀県近江八幡市宮内町19-9 2016.12.24
八幡山城 (はちまんやまじょう)
所在地 滋賀県近江八幡市宮内町19-9 2016.12.24
登城ルート(緑は居館跡/青は北ノ庄城)
八幡堀
居館跡石段・石垣
虎口石垣
瑞龍寺
本丸北東側石垣
八幡山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高180m】
【感想】 八幡公園より西に行くと居館跡があり、石垣が残っていた。本丸の高石垣はよく残り見応えがある。
西の丸からは水茎岡山城の岡山、琵琶湖法然が望め、北の丸からは西の湖、安土城の安土山、観音寺城の繖山(きぬがさやま)などが一望できる。また、麓に八幡堀があり観光名所となっている。
【案内】 日牟礼八幡宮の前に駐車場[マップコード67 791 451*22]があり、八幡山ロープウエイが二の丸展望台前まで運行されている(片道490円、往復880円)。
徒歩の場合は、その西100mの「八幡公園」豊臣秀次卿像の背後より八幡山縦走ルートがある。公園西側に居館跡があり、竹林の中に石垣が残っている。
比高約180m標高271.8mの鶴翼山(八幡山)頂上にあり、本丸には瑞龍寺、二の丸には展望台が建てられている。髙石垣が当時のまま残され、北の丸、西の丸が一段下がって夫々残っている。北の丸より尾根伝いに北東に行くと北之庄城がある。
【歴史】 天正十年(1582年)の本能寺の変と山崎の戦いのしばらく後に灰燼に帰した安土城は、清洲会議を経て三法師(織田秀信)を城主に、織田信雄を後見人として再興することとなった。
しかし翌年の賤ヶ岳の戦い以降、政情が豊臣秀吉の天下へ移行する中で、天正十三年(1585年)の紀州攻め、四国征伐で副将格で戦陣に入り武勲を立てた豊臣秀次は八月二十三日の論功行賞で近江八幡43万石(豊臣秀次は20万石、宿老に23万石)を与えられると安土城の隣地に八幡山城を築き、安土城の建物や城下町を移築することにした。
豊臣秀吉は八幡山城を安土城に替わる近江国の国城として、豊臣秀吉自身が普請の指揮をとり、山頂の城郭と麓にある居館、そして安土城から移築した城下町の造営に力を注いだ。しかし、八幡山は安土山と違い険しい山で、山の斜面を充分活用できず麓の居館が城の中心となった
豊臣秀吉の八幡山築城の狙いは、豊臣秀次の宿老に田中吉政を配し、水口岡山城に中村一氏、長浜城に山内一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末を配して、近江国を軍事的、経済的要衝として万全な体制にすることにあった。
豊臣秀次は18歳で入城したが、天正十八年(1590年)に尾張国清洲城へ移封となった。
代わって京極高次が2万8千石で入城したが、文禄四年(1595年)秀次事件で羽柴秀次は切腹、聚楽第と同時期、築城から10年で八幡山城は廃城となり、京極高次は大津城へ移った。
本丸跡には秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀尼(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が昭和三十八年(1963年)に移転されている。