岐部城 (きべじょう)
最寄地 大分県国東市国見町岐部536 2019.5.4
岐部城 (きべじょう)
最寄地 大分県国東市国見町岐部536 2019.5.4
登城ルート(緑線は車道)
ペトロ・カスイ岐部の像
旧有永邸
岐部氏主従の墓
下部の石垣
上部の石垣
主郭・標識
南1番目の堀切
南側2番目の堀切
岐部城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m】
【感想】 国東市国見町岐部の北へ伸びる標高52mの尾根先端部に築かれている。
石垣が3段ほどにわたってよく残り、主郭背後の尾根に2条の堀切が残っている。
【案内】 国道213号線の岐部川に差し掛かる手前に「国見ふるさと展示館」(旧有永邸:表記番地)があり、駐車場が用意されている[マップコード265 885 461*36](地図)。
東麓にペトロ・カスイ記念公園があり、ペトロ・カスイ岐部の立像が建てられている。
岐部城へは旧有永邸手前に岐部氏主従の墓があり、その先から登る。石垣が残り、北側には回廊式の展望台があり、南に登ってゆくと主郭がある。主郭背後には堀切が2条残っている。
また、幕末期の総代庄屋を務めた有永三郎の屋敷が国登録有形文化財として保存されている「国見ふるさと展示館」。
【歴史】 鎌倉時代に岐部成久によって築かれたという。成久は弘安の役で戦功を立てた。
慶長五年(1600年)九月、大友義統(吉統)が再興をかけて挙兵し黒田孝高と石垣原で戦ったが敗れ、大友氏に従っていた岐部氏も衰退した。
江戸時代、岐部氏の一族・岐部茂勝(洗礼名ペトロカスイ岐部)(1587~1639年)は、慶長十八年(1613年)に禁教令が発されるとマカオに追放された。
その後インドを経て元和六年(1620年)ローマのラテラノ教会で司祭に叙階され帰国した。
長崎から東北に移り迫害下のキリシタンのために働いていたが、寛永十六年(1639年)仙台藩で捕えられ、江戸で穴吊しの拷問を受けるが、棄教せず同年52歳で殉教した。