野々美谷城 (ののみたにじょう)
最寄地 宮崎県都城市野々美谷町820−2 2019.3.6 5.5
野々美谷城 (ののみたにじょう)
最寄地 宮崎県都城市野々美谷町820−2 2019.3.6 5.5
説明板
諏訪神社標柱・西の丸
八幡城
諏訪神社鳥居
諏訪城・諏訪神社
諏訪城東の空堀
野々美谷城 諏訪城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 野々美谷城は大淀川左岸の台地に築かれており、10区に分れ、本丸・諏訪城・西丸(二区)・八幡城・石垣城・蔵持城・内城・尾崎城・取添城があったという。
諏訪城は空き地や諏訪神社境内となり、東西140m南北70m程の広さがある。東側に樹木に覆われた深い空堀があり、その先に名前は分からないが曲輪がある。その東側に横堀が残っている。
西側に西の丸があり、ソーラーパネルが設置されている。その東の道路向かいにも竹藪となった城(八幡城?)がある。
【案内】 水産工場(表記番地)の向いに諏訪神社があり、その裾に説明板が建てられている[マップコード117 729 163*25](地図)。
諏訪城は諏訪神社の境内と空き地となっている。東側に空堀がある。
【歴史】 正平七年(1352年)都之城初代北郷資忠が、北郷300町を得て山田町古江のさつま迫に入部したころの築城と伝えられる。
その後、球磨の相良氏に侵攻され相良前頼が守将となった。その後城主は次々に代わり、応永元年(1394年)には、島津元久と北郷義久がこれを攻め落として樺山音久に守らせた。
大永元年(1521年)音久の子・長久を大隅小浜に移して北郷尚久を守将とした。
大永三年(1523年)伊東尹祐が北原久兼と組んで野々美谷城を攻め、北郷尚久は流矢に当たって討死した。伊東尹祐も戦死した為戦いは止み事なきを得た。
その後しばらくして北郷氏はこの城を伊東氏に譲り講和した。
天文元年(1532年)北郷氏が北原・飫肥の島津と組んで野々美谷城を攻め落とし、一時北原氏の所領となった。
天文十一年(1542年)にはまた北郷忠相がこれを攻め落とし、久紹が守将となった。
慶長の大名配置替えで、都之城が伊集院忠棟の所領となったとき、有屋田大炊左エ門らが守将となったが、慶長四年(1599年)庄内の乱で島津忠恒に攻め落とされ、北郷忠能の領有となった。
元和元年(1615年)一国一城令で廃城となった。『都城教育委員会説明板』より。