鹿野城 (しかのじょう) (王舎城・志加奴城・鹿奴城)
所在地 鳥取県鳥取市鹿野町鹿野896 2013.10.14
鹿野城 (しかのじょう) (王舎城・志加奴城・鹿奴城)
所在地 鳥取県鳥取市鹿野町鹿野896 2013.10.14
登城ルート(緑丸は本丸跡)
堀・出丸石垣
出丸にある鹿野中学校
本丸跡
天守台虎口
天守台跡
鹿野城 天守台跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高90m】
【案内・感想】 外堀・内堀に囲われた出丸跡は「鳥取市立鹿野中学校」(表記番地)の ており、水堀、石垣がよく残っている。城山神社の鳥居手前に駐車出来る[マップコード345 442 688*67]。鳥居をくぐって登ってゆくと途中、城山神社が建てられている。
更に登ると石垣が残り、石段の上が天守曲輪であり、比高約90mの山頂に天守台が残っている。鹿野の町並の眺望は良好である。
【歴史】 創建年代は不明だが、因幡の国人領主・志加奴氏(鹿野氏)が居住していたと言われる。
『陰徳太平記』によれば、天文十三年(1544年)初夏、因幡に侵攻してきた尼子晴久によって攻撃され、城主の鹿野入道以下300余名が討ち死にしたという。
永禄六年(1563年)武田高信の攻撃を受けた因幡守護・山名豊数が守護所である布勢天神山城を捨てて鹿野城に退いている。
天正八年(1580年)羽柴秀吉による第一次鳥取城攻撃の際に織田方の城となり、尼子家の旧臣・亀井玆矩が守将となった。
茲矩は本能寺の変後に秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍に属して加増され、都合3万8千石の領主として近世大名となった(鹿野藩)。亀井氏は鹿野城を近世城郭へと改築し、殖産興業を興した。
元和三年(1617年)、茲矩の嫡子・政矩は津和野藩(津和野城)へ転封され、池田光政の鳥取入府に伴い、家老・日置忠俊が城主となった。
その後、寛永九年(1632年)に入部した池田光仲によって代官・佐藤知之が派遣されたが、長くは続かず、正保元年(1644年)二月に城の破却が行われたという。