二上山城 (にじょうざんじょう)
最寄地 大阪府南河内郡太子町山田2021 2016.9.3
二上山城 (にじょうざんじょう)
最寄地 大阪府南河内郡太子町山田2021 2016.9.3
登城ルート(緑は雌岳)
登山口・二上山万葉の森の石碑
展望台
雌岳頂上
雄岳西の空堀
雄岳の本丸跡
葛木座二上神社
二上山城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高280m】
【案内・感想】 大阪府と奈良県の境にあり、登り口は大阪府、城跡の雄岳は奈良県側にある。国道166号線北に面した表記番地の東に駐車場が用意され、案内図が建てられている[マップコード36 635 771*57] 。
舗装された万葉の森遊歩道を1.5km登った比高約280mの雄岳山頂に本丸跡があり、葛木座二上神社(奈良県葛城市染野691)が祀られている。西側に空堀が残っている。東の二の丸と呼ばれている場所に大津皇子の墓がある。
南西にある雌岳は眺望もよく、家族連れで賑わっていた。
【歴史】 二上山に城郭を築いたのが楠木正成で、楠木氏河内国七城の一つであると思われているが確証はない。
室町時代初期、河内国守護畠山氏が高屋城の支城として二上山城を設けたとも思われている。
明応八年(1499年)に大和国へ入国した赤沢朝経が二上山城に入城して畠山尚順をはじめとする筒井氏、十市氏に従う国人衆を制圧した。
しかし永正四年(1507年)六月二十三日、細川政元が暗殺(永正の錯乱)されると、赤沢軍は総崩れになってしまった。同年六月二十五日に赤沢軍に属していた和田源四郎という人物が二上山城に逃れてきたが、『多聞院日記』によると桜井周辺で大和国の国人衆に遭遇し敗死してしまった。
同年八月に政元の養子の1人・澄元が政権を取ると朝経の養子・長経が大和国に侵攻、これに対して大和国の国人衆は同年十一月十三日に二上山城を含む各地で「一国一揆」をおこすが敗退してしまう。
その後天文十年(1541年)八月に木沢長政が改修した。今日に見られる二上山城の城郭は木沢長政時代に築城したと思われる。しかし、その木沢長政も翌天文十一年(1542年)三月十七日に太平寺の戦いで討ち死にすると信貴山城と二上山城は陥落してしまったと思われている。