勢福寺城 (せいふくじじょう) (成福寺城・清福寺城)
最寄地 佐賀県神埼市神埼町城原2618−2 2014.9.6 2015.5.5 2018.5.3
勢福寺城 (せいふくじじょう) (成福寺城・清福寺城)
最寄地 佐賀県神埼市神埼町城原2618−2 2014.9.6 2015.5.5 2018.5.3
登城ルート(緑線は車道)
種福寺右手の登り口
南東尾根の堀切1
曲輪A
曲輪Cの井戸
曲輪E(南曲輪群主郭)
大堀切
曲輪G(北曲輪群主郭)
曲輪H
勢福寺城 南主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高170m】
【感想】 神埼町城原の標高196mの城山に築かれており、少弐氏の頃のA~Eの曲輪で構成される南曲輪群と、大堀切を境に西に江上氏の頃とされるF~Iの北曲輪群がある。
幅は10~30mで長さは900mに及ぶ連郭式の山城となっており、岩場を利用した堀切や井戸などよく残っている。
【案内】 県道31号線の城原川の橋の南より北に約750m行くと、道路の西に家臣団の「元屋敷地区」がある(地図)。
更に約250行くと、西に空堀案内板があり、登り口がある。少し登ると民家があるが、空堀を伝って迂回して登れる。そこから先は荒れて直登しかない。
長崎自動車道トンネルの上に館跡曲輪がありまたさらに登った標高196m(比高約170m)の城山に城跡があるが、今回は断念した。
東側のこんもりした低い丘陵が、少弐氏期の居館跡と考えられている雲上城(うんじょうのき)で(地図)、東西に二分され、西地区は東西150m南北180mの大規模空間で、東地区は土塁・空堀で細分された方形区画である。南側から西に堀、土塁がある。
今回3度目の訪問で、種福寺(表記番地)横の登り口が見つけられた[マップコード87 627 239*12] (地図)。登り口に説明板が建てられ、登城ルートのロープや階段が整備され、要所要所に標識や現在位置を示した縄張り図が建てられていた。
種福寺は、天正七年(1579年)江上家種の開基で、江上家種の五輪塔が残されている。
【歴史】 文和二年/正平八年(1353年)に九州探題・一色範氏の子で肥前守護の一色直氏により築城されたという。
直氏は後に二代目の九州探題となった。その後、菊地氏、少弐政資・資元・冬尚、龍造寺氏の城となった。
天文九年(1540年)少弐冬尚が少弐氏を再興するが、 永禄二年(1559年)に龍造寺隆信に攻められ勢福寺城は落城した。
その後龍造寺隆信の次男、江上家種が城主となったが、天正十七年(1589年)に家臣と共に蓮池城に移り勢福寺城は廃城となった。