賤ヶ岳砦 (しずがたけとりで)
最寄地 滋賀県長浜市木之本大音1366 2016.10.26
賤ヶ岳砦 (しずがたけとりで)
最寄地 滋賀県長浜市木之本大音1366 2016.10.26
登城ルート
南郭切岸
虎口
合戦碑
北西の犬走り
賤ヶ岳砦跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高280m】
【感想】 頂上からは琵琶湖北岸や余呉湖、それを取り巻く「賤ヶ岳の戦い」の砦のある連山が一望出来、大垣から引き返した羽柴秀吉もここから動静を把握し戦略を練った事だろう。
【案内】 県道514号線より山裾を北に行くと「賤ヶ岳リフト」駐車場が用意されている[マップコード192 294 782*85]。
リフト料金は片道400円(一般)で、徒歩の場合はリフト乗場の左に登り口がある。
リフトを降りて登る途中に「賤ヶ岳合戦戦没者霊地」があり、各地に祀られていた慰霊碑が集められている。
標高421.1m比高約280mの賤ヶ岳頂上に砦跡があり、南郭、主郭、北郭より構成されている。北西に下ると、犬走りや堀切土橋が残っている。
主郭から北に余呉湖や堂木山、神明山、遠く行市山、右に東野山が一望できる。東に下って2.5㎞行くと大岩山砦がある。
【歴史】 天正十年(1582年)六月の本能寺の変後、柴田勝家と対立した羽柴秀吉は余呉湖周辺の山々に、砦を築き家臣を配置した。
雪で閉ざされ身動きの取れない勝家は雪どけを待って、天正十一年(1583年)三月、余呉柳ヶ瀬玄蕃尾城に布陣した。両軍は多くの砦を築き長期戦に備えた。
四月になり、秀吉は岐阜で挙兵した織田信孝を討たんと兵を引いた。秀吉の罠とも思われるが、そのすきに勝家の家臣佐久間盛政が秀吉方の大岩山砦の中川清秀軍に奇襲をかけ攻略した。
柴田軍が優勢に立ったかに見えたが、秀吉軍が大垣から52kmを僅か5時間で戻る「美濃の大返し」や「7本槍」(片桐且元・福島正則・脇坂安治・糟谷武則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰)と呼ばれる武将の活躍、しぶしぶ勝家に味方していた前田利家親子の戦線離脱など相まって柴田軍は総崩れとなり、越前へ敗走した。
秀吉軍は勝家軍を追い、北ノ庄城を攻め勝家とお市を自刃させた。お市の三人の娘は秀吉に引き取られ、長女茶々は後に豊臣秀吉の側室淀殿となった。