草津城 (くさつじょう)
最寄地 広島県広島市西区田方1-9-61 2021.4.15
草津城 (くさつじょう)
最寄地 広島県広島市西区田方1-9-61 2021.4.15
北側階段
主郭
主郭・城址碑・説明板
児玉就方の五輪塔
草津城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高20m】
【感想】 太田川北西の標高約44mの山頂に築かれており、山頂の主郭に城址碑、説明板が建てられている。北側に割と広い郭があり、南側に帯郭が残っている。
南東に伸びていた城跡はJR山陽本線と広島電鉄宮島線で三分割され、宮島線から国道2号線までは宅地化されている。
【案内】 「行者山トンネル」の南にある市道高架下、表記番地東に階段の登り口がある[マップコード22 153 368*22]。高架下のカーブミラーと擁壁の間に駐車できる。
階段を登ると無線塔があり、その先に主郭があり城址碑、説明板が建てられている。
北側の竹林の中に平坦地があり、南側に帯状の郭がある。
城址碑の所から東側に下ると児玉就方の五輪塔墓が祀られている(地図)。
【歴史】 戦国時代には、当初、厳島神社神主家(藤原氏)配下の神領衆・羽仁氏が居城した。
康正二年(1456年)武田信賢が草津城を攻め落とし改築した。ついで大内氏の家臣・新里式部少輔が城主となり、次いで陶氏の家臣・羽仁有繁が城番となった。
天文二十三年(1554年)、毛利氏は無血で城番の羽仁有繁を追い落とし草津城を支配下に収めた(防芸引分)。
毛利氏は水軍の将である重臣・児玉就方を草津城主とした。
その後、天正十四年(1586年)児玉就方の死去により就英が城主となり、児玉元昌と続いた。
児玉氏支配下で城の南に位置する草津湊は広島湾を警護する毛利水軍の基地となり、草津の町も大いに繁栄したという。
しかし慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いによる毛利氏の防長移封後、福島正則が広島城主となり、正則は草津城下の山陽道に大門をつくり、広島の西の関所とし、草津城を壊したと云われている。