有田城 (ありだじょう)
最寄地 広島県山県郡北広島町有田1601 2019.12.15
有田城 (ありだじょう)
最寄地 広島県山県郡北広島町有田1601 2019.12.15
登城ルート(緑線は車道)
駐車場・説明板
2郭・説明板
3郭・奥が主郭
主郭
茗荷丸・三角点
有田城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【感想】 中国自動車道「千代田IC」西の標高376.9mの山頂に築かれている。
最高所に茗荷丸があり、西側に主郭、3郭があり、主郭南側に2郭がある。
案外こじんまりした城で、堀は見られなかった。早朝と云う事もあり、茗荷丸から見ると、盆地に雲海が広がっていた。
【案内】 国道261号線より西に行った市道に登山口の碑が建てられている[マップコード322 319 369*70]。そこより中腹の「有田八幡神社」(表記番地)南側まで車で行け、駐車場があり、説明板が建てられている(地図)。
そこから西へ遊歩道を登ってゆくと、2郭に着く。2郭の北に主郭、西に3郭があり、主郭の東に茗荷丸があり三角点が建てられている。
南麓に又打川が流れ、武田元繁戦死の地の石碑が建てられている(地図)。
【歴史】 城主は山県氏の一族有田市と思われ、東の壬生氏、西の今田氏と共に、室町から戦国時代初期にかけてこの地域を支配した。
永正十二年(1515年)山口の大内氏に対し、銀山城主・武田元繁が反旗を翻し、壬生氏・有田氏・今田氏も武田方に与し従軍した。
これに対し、大内氏の命を受けた郡山城主・毛利氏によって有田城は攻撃された。
永正十四年(1517年)、有田城奪回を目指す武田氏五千五百と多治比猿掛城主・毛利元就率いる千五百及び大朝新庄の吉川勢二百の連合軍との間で有田合戦が繰り広げられた。
武田元繁は戦死し、山県一族の壬生・有田・今田氏も没落した。この合戦は、武田氏の威勢を失墜させ、逆に毛利氏は安芸国人の中に占める地位を高め、初陣を飾った元就自身も毛利家家督相続の足場を築くことになった。