手間要害 (てまようがい) (天満要害・天満山城)
最寄地 鳥取県西伯郡南部町寺内860 2018.5.11
手間要害 (てまようがい) (天満要害・天満山城)
最寄地 鳥取県西伯郡南部町寺内860 2018.5.11
登城ルート(緑線は車道)
橋・登山口標識
10郭
2郭
2郭と主郭の段差
主郭の三角点
主郭南の5郭
手間要害 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高280m】
【感想】 出雲との国境に近く、南部町寺内の標高331.7m手間山山頂に築かれており、頂上の主郭より南に1段、北に8段の郭が階段状に並んでいる。
4~9郭までは鬱蒼としており、踏み込めず遊歩道から段差が見られる程度だ。地震があったのか2郭の鳥居が落ちていた。
【案内】 県道1号線に「赤猪岩神社」の大きな看板があり、「手間要害山」の道標が建てられている。
途中に案内標識があり、表記番地西を通って狭い道を約800m南下すると、溜池の横に駐車場が用意されている[マップコード109 087 864*04](地図)。
西の川を渡って少し行くと、説明板が建てられ登り口がある。遊歩道は歩きやすく迷う事はないが、如何せん比高が高い。
【歴史】 戦国時代の手間要害には日野孫左衛門が入っていた。
永禄年間(1558~70年)の初めに毛利氏に降った日野孫左衛門は同五年(1562年)に尼子氏へ復帰し、西伯耆の軍事拠点を失った毛利氏は衝撃を受けた。
永禄六年(1563年)四月には片山平左衛門尉が「天満固屋」を焼き崩すなど奪還に向けて動いた結果、同七年(1564年)の早い時期には再び、取り戻すことに成功し、杉原盛重が入城して家臣の菖蒲左馬充ら300余名が置かれた。
毛利氏の命を受けた杉原盛重は、尼子氏に備え天満山普請を行い、軍事拠点としての整備がなされた。
その後、20年間ほど手間要害は文献から姿を消すがこの間も杉原一族が城に入っていたと考えられている。
天正十二年(1584年)に杉原景盛が自刃した際には手間要害も落城しており、杉原氏の城として重要な役割を果たしていた。
また、天正十九年(1591年)当時、毛利氏が西伯耆に保持していた5ヶ所の城の中に「手間」の記述が見える。