小倉城 (こくらじょう) (勝山城・指月城)
所在地 福岡県北九州市小倉北区城内2‐1 2013.5.27 2014.5.14 2021.4.10
小倉城 (こくらじょう) (勝山城・指月城)
所在地 福岡県北九州市小倉北区城内2‐1 2013.5.27 2014.5.14 2021.4.10
西ノ口門跡
大手門跡
鉄門跡
本丸・復元天守
着見櫓(糠蔵)
復元天守(北東)・内堀
小倉城庭園
小倉城本丸(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 紫川の西岸に位置し、北と西に堀が残る。日豊本線または鹿児島本線「西小倉駅」の南約200mに外堀がある。
県道63号線「小倉城前」交差点の南約200mに「勝山公園駐車場」が用意されている[マップコード16 464 629*24](地図)。「西ノ口門」より入る。
内堀、石垣が良く保存され、本丸に旧第十二師団司令部跡の煉瓦の門が残る。南の隅に白洲灯台が移築されている。西に筆塚その北隅に「着見櫓」があり、「糠蔵」として漬物販売に利用されている。
その東、野面積の石垣の上に四重五階の天守と一重小天守の連立式天守がある(表記番地:1959年・RC造)。内部は物産館・郷土資料館・展望台になっており、五階から小倉市街が四方に望める。
勝山公園の本丸を中心に、南に松丸、北に八坂神社のある北の丸、それらを囲い込むように二の丸、三の丸、外郭が配された梯郭式平城であった。
八坂神社一之鳥居の東に「小倉城庭園」があり有料で見学できる。
【歴史】 最初の築城年代は明らかではないが、文永年間(1264~75年)に緒方大膳亮帷重が居城した、というのが初見とされる。
元徳二年(1330年)には黒崎土佐守景経が居城、のち大内氏の持城となった。嘉吉二年(1442年)に太宰少弐頼冬が攻略をかけ、文明年間(1469~86年)には菊池氏が居城とした。
永禄十二年(1569年)、毛利氏らと結んで大友氏に対し反乱を起こしていた岩屋城督高橋鑑種が降伏し、小倉城に領地替えとなった。
天正十五年(1587年)、豊臣秀吉の家臣であった森勝信が豊前国小倉6万石(一説に10万石)を与えられ、小倉城に入城。なお、子の勝永にも豊前国に1万石を与えられ、この際に秀吉の計らいによって、元の姓である森に変えて中国地方の太守・毛利氏の姓を名乗らせている。
慶長五年(1600年)、毛利勝信・勝永父子は関ヶ原の戦いで西軍に付き改易となった。 関ヶ原の戦いの論功行賞で細川忠興が豊前国を領した。初め中津城に入城したが、慶長七年(1602年)から7年かけて40万石の大名の居城として、毛利氏の小倉城を改築し、居城とした。なおこの時城下も整備され紫川の西に主として侍町、東は町人や下級武士達の町とした。
寛永九年(1632年)、細川忠利が肥後国熊本城に移り、譜代の明石城主・小笠原忠真が15万石で、小倉城に入り、以後、小笠原氏の居城となった。天保八年(1837年)、本丸御殿、天守を焼失し、それ以後天守は再建されなかった。
文久三年(1863年)四月、海防強化のため、城の外郭で海からの入口に当たる紫川河口両岸に砲台(東浜台場・西浜台場)を建設。
慶応二年(1866年)、第二次長州征伐で小倉藩と長州藩の戦闘の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に小倉城撤退を決める。同年八月一日、小倉藩の付火により小倉城を焼却し、幼少の藩主は熊本藩に退避した。家老以下の藩首脳は香春(かわら)で指揮を執った。
慶応三年(1867年)、長州藩と小倉藩で和平が成立。しかし、小倉城を含む企救郡は長州藩の預りとされ、引き続き占領されたままとなったため、以後も藩庁は香春に置かれ、お茶屋(藩主巡察時の滞在施設)を中心に付近の町人宅をも借り上げて設置された(その後、明治二年(1869年)に京都郡豊津(現在のみやこ町)に藩庁を新設し移転)。
同年、版籍奉還となった。明治八年(1875年)、陸軍歩兵第12旅団本部が松の丸跡に置かれた。
明治三十一年(1898年)、陸軍第十二師団司令部庁舎が本丸跡に建てられた。(大正十四年(1925年)久留米に移転)。
昭和九年(1934年)、八坂神社が鋳物師町より北の丸に遷座された。