山田城 (やまだじょう)
最寄地 熊本県球磨郡山江村山田1613 2018.12.10
山田城 (やまだじょう)
最寄地 熊本県球磨郡山江村山田1613 2018.12.10
登城ルート
説明板
階段
階段頂部
南の郭の段差
中央と南郭間の空堀
中央の郭(薮)
山田城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【感想】 人吉盆地を望む標高236mの尾根先端部にある。2つの広い郭があり空堀で隔てられている。全体的に鬱蒼としており、特に中央部分は何が何だか分からないほどであった。
周囲は切り立った岩や崖で登り口が見つからず、やむなく擁壁の階段を利用させてもらった。しかし登った所に、鉄条網があり苦労させられた。
【案内】 県道162号線より山田大王神社に向かう。左側より北に行くと、表記番地横に説明板が建てられている[マップコード195 886 417*28]。
九州自動車道下を北に少し行くと、右に入る道があり、駐車できる。そこより擁壁を上がり、鉄製階段を利用させてもらった。
【歴史】 相良家2代頼親の嫡男頼明が山田城の初代城主となった。元々頼明は相良家3代となる筈であったが、年少であった為頼親は弟頼俊を3代とし、頼明には山田領の地頭として、山田城を築き居住させた。
この地は永留と云われていたため、頼明は永留(永富)荘司次郎頼明と称した。
その後、2代頼常・3代頼積・4代長滋・5代頼均・6代頼道・7代頼連・8代実重と続き9代長続は人吉相良家11代を相続した。
南北朝時代、相良氏は南朝、北朝に分れ山田城で2度合戦があった。建武三年(1336年)北朝方の6代相良定頼は永吉庄の山田城を根城とした南朝勢と戦った。
暦応三年(1340年)北朝の少弐頼尚は筑後経尚に命じて、南朝方に転じ、山田城に立て籠もった相良裕長と10日間の激戦を繰り広げた。