田辺城 (たなべじょう) (舞鶴城)
所在地 京都府舞鶴市南田辺15‐12 2013.10.15
田辺城 (たなべじょう) (舞鶴城)
所在地 京都府舞鶴市南田辺15‐12 2013.10.15
明倫小学校(三の丸)
復元大手門
復元二重櫓(影古館)
本丸井戸跡
天守台石垣
田辺城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 伊佐津川の西にあり、本丸跡は舞鶴公園になっており、50m北側の有料駐車場が利用できる[マップコード]。
大手門(田辺資料館・平成四年造)、二重櫓(表記番地)(彰古館・昭和十五年造)、築地塀、天守台石垣などが復元されている。
三の丸跡は明倫小学校敷地となっている(舞鶴市北田辺128-1)。
【歴史】 室町幕府の丹後守護所は加佐郡の八田であり、丹後守護の一色氏は八田の守護館において政務をとっていた。
天正六年(1578年)織田信長の命によって守護大名・一色義道を滅ぼし、丹後を制した長岡藤孝(細川幽斎)は、はじめは宮津城を居城としたが、京都に近く交通の要所であった旧丹後守護所の加佐郡八田に、地名を田辺と改め、田辺城を築き、経営の中心とした。
隠居後は、子の忠興を入城させた。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで、細川忠興は西軍の誘いを退け、徳川家康率いる東軍に加勢した。
田辺城攻防戦ののちに細川忠興は小倉(小倉城)に転封され、京極高知が丹後一国12万3千石を与えられ田辺城に入ったが、宮津城を再築し宮津城へ本拠地を移した。このとき田辺城の建造物は、ことごとく破壊されたと伝えられている(一国一城令)。
京極高知が没すると遺言によって京極家は嫡男・高広が宮津藩7万5千石、次男・高三が田辺藩(舞鶴藩)3万5千石、養子・高信が峰山藩1万3千石を相続した。
初代舞鶴藩主となった京極高三により石垣の修復や櫓の再建が図られ、荒廃していた田辺城は再興された。
京極氏は三代続いた後、豊岡藩へ転封となり、代わって牧野氏が寛文八年(1668年)3万5千石で入封すると、田辺城の大手門その他の城門・石垣などが改築され、以後牧野氏の世襲により、明治まで続いた。
明治二年(1869年)には版籍奉還が行われ、その後、紀伊田辺藩との同一藩名を解消するため太政官より田辺藩の名称変更を命じられ、同年六月に田辺城の雅号・舞鶴城に因んで舞鶴藩に改称した。
明治四年(1871年)の廃藩置県で、廃城となった。