猫尾城 (ねこおじょう) (黒木城) (県の史跡)
所在地 福岡県八女市黒木町北木屋60 2014.5.9
猫尾城 (ねこおじょう) (黒木城) (県の史跡)
所在地 福岡県八女市黒木町北木屋60 2014.5.9
説明板
登城ルート(緑線は車道)
本丸・彦山神社
本丸
黒木城趾碑(左)
二の丸・薬師如来堂
猫尾城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道442号線の八女市立黒木中学校(表記番地)の「中学校前」交差点の次から左折し専用道路があり、すれ違いは困難だが本丸まで車で登って行ける。遠回りだが東側からアクセスする道路は広く終点に駐車場が用意されている[マップコード166 157 485*26] 。
城跡は「城山公園」となり、石垣の残る天守台に彦山神社が建立され、「勤王史跡黒木城趾」(裏に由来文)、「猫尾城戦没将士之霊」の石碑が建てられている。西に二の丸があり薬師如来堂が建てられている。
昭和五十八年(1983年)3月19日、県の史跡に指定された。
【遺構】 猫尾城跡は、福岡県八女郡黒木町の矢部川本流と笠原川が合流する丘陵にあり、戦略上奥八女の要衝を占める中世の山城である。
本丸跡は標高240m、南北56mほどで周囲を石積みで巡らし武者走り、馬場を備えた天然の要害であった。
本丸の東北に艮櫓跡、東に城主の居館跡、東南に政所跡、東南の端に巽櫓跡があり、西側に大手門跡、北西に酉櫓跡がある。二の丸跡は馬場を挟み本丸の西下に位置し、約30m四方であり、山麓に通じる西側斜面に縦状畝堀が40m以上確認されている。三の丸は空堀を挟み本丸の東下に位置した。
山麓一帯に外郭と堀を持つ居館を構え「陣の内」と称し、平時はここを拠点に敵の侵攻に備えた。西8㎞余に犬尾城跡がある。『説明板』より。
【歴史】 史料によると、仁安二年(1167年)徳大寺家の請いにより大蔵大輔源助能が瀬高荘を管理するため、大隅国根占(ねじめ)(鹿児島県肝属郡錦江町)から筑後国上妻郡黒木郷へ移り築城し、黒木氏と称した。
天正十二年(1584年)大友氏に攻められた。2ヶ月に及ぶ戦禍で城下は灰燼に帰した。
黒木氏は城地に復したが、天正十五年(1587年)豊富秀吉の九州平定後、黒木氏は所領を没収され帰農した。
その後筑紫広門が筑後国を領し治めたが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後改易された。
代わって田中吉政が筑後国を与えられ、黒木城には家老辻勘兵衛が城代として入った。
元和元年(1615年)大阪の役において不始末により田中氏は所領を没収され、黒木城は廃城となった。『石碑由来文』より。