湯築城 (ゆづきじょう) (国の史跡・日本100名城80)
所在地 愛媛県松山市道後公園 2014.5.15
湯築城 (ゆづきじょう) (国の史跡・日本100名城80)
所在地 愛媛県松山市道後公園 2014.5.15
外堀
大手・土塁
内堀
資料館・土塁
二の丸
二の丸・本丸
湯築城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道188号線の東に道後公園専用駐車場が設けられている(入場料:無料)[マップコード53 349 375*70](地図)。
外堀と内堀の間に土塁があり、土塁と内堀の間に湯築城資料館や武家屋敷1、2がある。
北側に湯釜薬師がある。本丸跡の北東に下ったところに岩崎神社が祀られ、その東の斜面に石垣が残る。東側の低地はグランドとなっている。
平成十四年(2002年)9月20日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(80番)に選定された。
【歴史】 建武年間(1334~38年)、伊予国守護・河野通盛によって築城された。
通盛の祖先には十二世紀末の源平合戦の際、水軍を率いて活躍した通信(みちのぶ)、十三世紀後半の蒙古襲来の際活躍した通有(みちあり)がいる。東に追手門、周りに二重の堀をめぐらせた梯郭式平山城であった。
天正九年(1581年)以後、四国征圧を狙う土佐国の長宗我部元親が伊予に侵入し、城主河野通直は元親と交戦した。
天正十三年(1585年)、四国征伐をめざす豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が伊予に侵攻して金子元宅を攻撃、湯築城は約一ヶ月の篭城の後に降伏した。城にとどまっていた通直は命をは助けられたが、二年後に病没した。城は隆景に与えられたが、彼の所領は筑前に移された。
天正十五年(1587年)、福島正則が城主となるが、正則が国分山城に居城を移したため、廃城となった。
慶長七年(1602年)、勝山(城山)に松山城の築城が開始され、以降加藤氏(のち蒲生氏、松平(久松)氏)が伊予国松山藩主となった。
明治二十一年(1888年)、県立道後公園として整備された。