屋嶋城 (やしまのき) (古代山城)(国の史跡)
所在地 香川県高松市屋島東町1808 2014.5.16 2017.12.11
屋嶋城 (やしまのき) (古代山城)(国の史跡)
所在地 香川県高松市屋島東町1808 2014.5.16 2017.12.11
登城ルート(赤は城壁/緑は石塁)
84番屋島寺山門
城壁(南より)
城壁(北より)
登城ルート(緑は石塁)
石塁上の城趾碑
石塁
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 屋島ドライブウエイ(有料:往復600円)を利用して第84番札所屋島寺(表記番地)に向い、東の駐車場が利用できる[マップコード60 672 618*14]。
駐車場南の「血の池」横を過ぎ、南へ400m行った標高292mの南嶺の南のY字路より、100mほど行った地点の、西側斜面に城壁が復元されている(地図)。
浦生(うろ)地区の海岸の空き地に駐車し、鵜羽神社より集落の外れに行き、更に300m遡ると、砂防ダム手前に防獣フエンス扉がある。そこより約200m行き沢を渡って更に350mほど行くと、谷の左側に崩れているが長さ50mほどの石塁がある(地図)。
昭和九年(1934年)11月10日、「屋島」として国の史跡となった。
【現状】 屋島に築かれた古代山城であり、日本書紀に「讃吉國山田郡屋嶋城」(さぬきのくにやまだのこほりのやしまのき)と記述されている。
屋島は、平安時代は島であったが、江戸時代の塩田開発で陸続きのようになった。屋島は、南嶺の標高292m、北嶺の標高282m、山頂部は平坦で広い台地であり、細い尾根で接続されている。南北嶺の山上全域が城跡とされている。
山上の外周7kmのほとんどが断崖で、南嶺の外周4㎞の断崖の切れ目に城壁が築かれている。山上からは山下の様子が明確に把握でき、地勢を有効に活用した城で、懸門構造の城門の存在が判明したのは国内初のことであった。
浦生(うろ)集落の谷筋の標高100mの山中に谷を塞いだ長さ50mの石塁などがある。この遺構は大正時代に発見され、近年まで屋嶋城の唯一の遺構であった。
山上の城は断崖を利用して城壁は築かれなかったとされていた。しかし、考古学の視点では未実証で異論を唱える研究者も存在した。近年の再調査で飛鳥時代の遺構であることが判明した。
浦生の遺構は山上の城への進入路を遮断した張り出し部を有する城である。屋島の北端に五世紀初頭の前方後円墳、東岸の入江の一帯は源平合戦の屋島古戦場、北端の岬に高松藩が築いた砲台跡などを有する。
【歴史】 663年(天智天皇二年)、白村江の戦いで、倭国(日本)・百済復興軍は唐・新羅連合軍に大敗した。大和朝廷は、唐・新羅の侵攻に備えて、対馬~九州の北部~瀬戸内海~大和に至る要衝に様々な防御施設を築いたことが日本書紀に記述されている。
664年、対馬・壱岐・筑紫などに防人と狼煙台を配備し、後の大宰府の西方に水城を築いた。
665年、長門に城を築き、筑紫に大野城と基肄城を、肥後に鞠智城を築いた。
667年(天智天皇六年)、大和に高安城・讃岐に屋嶋城・対馬に金田城を築いた。この年、国の守りを固めた中大兄皇子は、大津に遷都して天智天皇となる。