用来城 (ようらいじょう) (市の史跡)
最寄地 大分県佐伯市直川仁田原3558 2016.5.16
用来城 (ようらいじょう) (市の史跡)
最寄地 大分県佐伯市直川仁田原3558 2016.5.16
登城ルート
説明板・城山
登り口
尾根鞍部
堀切
主曲輪跡
用来城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【案内・感想】 国道10号線の表記番地前に説明板が建てられている。住民の方に登り口を尋ねたら、東側より幼少のころ登られたそうだが、現在は10号線の工事で削られ梯子をかけて登るようだと云われた。
あきらめて駐車していた西側に帰る途中、擁壁の東側と柵の間に切れ目があり[マップコード452 735 401*03](地図)、そこから急な斜面を斜め右の尾根鞍部を目指し直登してみた。
鞍部より東に行くと堀切があり東西30m南北15mほどの平坦地があり、北側が小高くなっている。
昭和五十七年(1982年)3月20日、直川村(現佐伯市直川)の史跡に指定された。
【歴史】 天正年間、薩摩島津軍の侵入に備えて築かれた、栂牟礼城の支城であった。
『筑豊乱記』によれば、「天正十四年(1586年)十月島津家久は日向から梓山(今の宗太郎峠)を越え豊後国大野郡宇目郷にはいり、朝日嶽城主であった野津院の柴田紹安(しょうあん)の内通などで大野郡の諸城は相次いで陥落、海部郡の佐伯氏の栂牟礼城も攻めたが佐伯惟定は死守して退かず、後に豊臣秀吉を感動させ、感状を受けた。」と記されている。
宇目郷朝日嶽城から栂牟礼城を攻める途中にあった用来城は、このとき島津の大軍によって陥落したものであろう。