本渡城 (ほんどじょう) (本戸城)
最寄地 熊本県天草市本渡町本戸馬場1148 2014.5.12 2015.5.7
本渡城 (ほんどじょう) (本戸城)
最寄地 熊本県天草市本渡町本戸馬場1148 2014.5.12 2015.5.7
登城ルート(緑線は車道/緑マークは二の丸)
登り口・稲荷大明神
一の丸・木山弾正の墓
主郭・祠
東側石垣
二の丸跡・天草キリシタン館
木山弾正社・本戸城跡碑
本渡城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【案内・感想】 明徳寺(表記番地)山門横に駐車場がある[マップコード254 457 005*21]。
南の 稲荷大明神との間より墓地を抜け、堀道を登って行くと木山弾正の墓、「天草伊豆守種元公之碑」(昭和41年)のある曲輪(地図)に出、六角堂が建てられている。
尾根を伝って北(右)に行くと比高約50mの最高所に祠のある主郭がある。主郭から南西および南東方向は、それぞれ堀切と幅7~8m・長さ100m以上の尾根道となっている。
戻って稲荷大明神より南に行った二の丸には「天草キリシタン館」(地図)が建てられ、島原の乱の史料が展示されている(但し、この道は一歩通行のため、約300mの徒歩となる)。その裏に木山弾正惟久を偲んで弾正社が建てられている。また城山公園として整備され、「殉教戦千人塚」が建てられている。
【歴史】 中世天草には城は五十を数え天草五人衆(天草氏・志岐氏・上津浦氏・栖本氏・大矢野氏)により分割支配が行われ、同盟・敵対を繰り返し、天草島外の戦国大名(大友・有馬・相良氏など)の力を借り競い合った。
十六世紀に入ると天草氏は天草五人衆の中で最も有力な存在となり、天正年間の天草鎮尚・久種時代には下島中央から南部の地域を支配し、本渡城は本城河内浦城に次ぐ主要な城であった。
天草五人衆は豊臣秀吉に領土を安堵され肥後国人一揆にも参加しなかったが、小西行長の宇土城普請を拒否した事から天正十七年(1589年)に合戦が起きた。
天草伊豆守種元は志岐氏と共に篭城・抗戦し、加藤清正・小西行長勢によって激しく攻められ、ついに天草種元は切腹、本渡城は落城した。
また、木山城の木山弾正正親も客将として入り、加藤清正を見つけると一騎打ちを挑んだが、味方に誤って刺され、討ち取られてしまったという。
加藤勢は高台になっている城後方および本丸を攻撃して城兵や家族をほぼ全滅させたのに対し、キリシタン大名であった小西行長勢は教会などを含む領域を包囲し、城兵や司祭をほとんど助けたと、キリスト教宣教師ルイス・フロイスが記録している。