敷山城 (しきやまじょう) (国の史跡)
所在地 山口県防府市大字牟礼 2019.5.2
敷山城 (しきやまじょう) (国の史跡)
所在地 山口県防府市大字牟礼 2019.5.2
登城ルート(緑線は車道)
駐車場・登り口
城阯碑
南東の平坦地
下段の郭・梵字岩
上段の郭・験観寺本堂跡礎石
敷山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高90m】
【感想】 矢筈ヶ岳(標高460m)から南へ伸びた標高300m付近の尾根に築かれている。
12の寺坊があったといわれ、南北朝初期に城として利用された寺院跡と云った印象で、堀など見られず、戦国時代の城とは雰囲気が違う。
【案内】 国道2号線の信号交差点(地図)より北に進むとすぐ「敷山城址参道」の標識があり、国道と並行に約200m西に行く。そこにも標識があり山陽新幹線を潜って約1.4km舗装道を行くと終点に駐車場があり、説明板が建てられている[マップコード93 297 151*33](地図)。新幹線トンネルは制限高が1.6mでワゴン車は西へ迂回する必要がある。
登り口から少し先を左に行くと、毛利氏後裔の揮毫による「敷山城戦死者・忠魂碑」が建てられている。
戻って北に500m程参道を登ると「敷山城阯」の石碑が建てられている。
そこから登ってゆくと平坦地がありその先に展望のよい平坦地に着く。梵字岩の巨岩があり西の藪の中まで郭が広がっている。
そこから少し登ると、鳥居があり社が祀られ、験観寺本堂跡の礎石が残っている。背後は急な崖で、矢筈ヶ岳に続く山道がある。
昭和十年(1935年)6月7日、国の史跡に指定された。
【歴史】 後醍醐天皇による建武の新政に対し、建武二年(1335年)足利尊氏は武士の政治を取り戻すべく挙兵し、以後60年にわたり吉野と京都に天皇を擁して戦う南北朝の戦いが続いた。
戦いの当初、尊氏は敗れ九州に逃れたが、兵を集め勢力を得て再び京都に攻め上がった。
長門・周防の有力な武将は尊氏側に付いたが、周防国府の小目代・摂津助公清尊、検非違使の助法眼教乗は後醍醐天皇(南朝)方に付き、大内弘直、小笠原長光らの武将や周辺の人々とともに、延元元年(1336年)七月、験観寺を城とし挙兵した。
尊氏は挙兵によって九州と分断されるのを恐れ、一族の石見国守護上野頼兼に攻撃させた。清尊や教乗は奮戦したが、大軍の前に敗北し、七月四日に戦死した。