鶴首城 (かくしゅじょう) (成羽城)
最寄地 岡山県高梁市成羽町下原1068−3 2021.2.11
鶴首城 (かくしゅじょう) (成羽城)
最寄地 岡山県高梁市成羽町下原1068−3 2021.2.11
登城ルート
登り口・公園
中腹の太鼓丸・四阿・縄張り図
二の壇から見た本丸
本丸
三の壇(奥が本丸)
五の壇南西の堀切
鶴首城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高260m】
【感想】 成羽陣屋南背後の標高331mの鶴首山に築かれている。
5つの郭を配置した連郭式山城となっており、北側中腹に太鼓丸、北東尾根に出丸が置かれている。
比高こそ高いが遊歩道は整備され、道標も多く安心して登れ、本丸周辺も明瞭に切岸が残っていた。南西尾根の堀切も見所となっている。
【案内】 国道313号線に面した「高梁市成羽美術館」(表記番地)の駐車場が利用できる[マップコード236 109 319*18]。
成羽陣屋の南側土塁の間から右に登って行った公園から登る(地図)。
遊歩道が整備され要所に道標が建てられ迷うことはない。そこから太鼓丸を経て尾根まで北東の尾根に登り、北東に行くと出丸があり、南西に登って行くと本丸に至る。稲荷神社を過ぎて急な斜面を登ると馬場に着く。
馬場の西に二の壇、一の壇(本丸)があり、南西に三の壇、四の壇、五の壇と階段状に並び、その先の尾根に2条の堀切があり、竪堀に続いている。
【歴史】 平安時代末の文治五年(1189年)奥州藤原氏征伐に功のあった河村四郎秀清が築城したと伝えられている。
天文二年(1533年)、星田を本拠としていた備中の戦国大名・三村家親が城郭を整備拡張し、拠点を鶴首城に移した。家親は、その後当地で勢力を拡大した。
永禄四年(1561年)三村家親・元親父子は、本拠を備中松山城に移し、鶴首城には一族の三村親成、親宣父子が城主になった。
永禄九年(1566年)宇喜多直家によって三村家親が暗殺されると、備中兵乱が激化した。
元親は織田信長に味方し、これに反対した親成父子は三村一族から離反して毛利氏に味方し、鶴首城主には三村親重が城主となった。
天正三年(1575年)鶴首城は毛利軍により攻略され落城、城は再び親成、親宣父子に安堵された。しかし元親の毛利氏からの離反を止められなかったため、所領を削減された。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで功のあった岡家俊が成羽の地を7千石で入城した。
慶長十九年(1614年)大阪の陣で家俊の長男岡平内が大阪方に味方したため、大阪城落城後、家俊は切腹させられた。
元和三年(1617年)、成羽に移封された山崎家治が入部したが、一国一城令により鶴首山麓に成羽陣屋を築いて入った為、鶴首城は廃城となった。