高安城 (たかやすき) (高安城)(たかやすじょう)
最寄地 奈良県平群町久安寺1620 2016.4.24
高安城 (たかやすき) (高安城)(たかやすじょう)
最寄地 奈良県平群町久安寺1620 2016.4.24
登城ルート(緑は2郭/青は3号倉庫跡)
ハイキングコース
本丸跡
空堀
2の丸跡
3の丸跡
2号倉庫跡
倉庫址石碑
3号倉庫跡
高安城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 大阪府と奈良県の境の487.5mの高安山にあり、古代高安城の跡に中世高安城が築かれた。古代高安城は東側中腹に3ヶ所の倉庫跡が見られ、中世高安城は2つの郭と空堀がよく残っている。
【案内】 県道250号線が信貴フラワーロードと交差する地点より、そのまま林道を直進し、約200m行き右折、約2km西へ行き信貴生駒スカイラインの橋を渡り、150m先を大きく左折し表記番地の前を南に行くと坂を登って終点となり、若干の駐車スペース[マップコード 11 094 579*66 ](地図)がある。
50m南を右に登ると中世高安城本丸跡があり、三角点がある。ハイキングコースを挟んだ反対側に北より空堀、二の丸跡、空堀、三の丸跡と並んでいる。二の丸跡土塁が一番よく残り、三の丸跡は広く草地となり二の丸側に土塁が残っている。
ハイキングコースを下ってゆくと、「大阪管区気象台・高安山気象レーダー観測所」の横に高安城跡(古代)の説明石碑がある。東に登ると高安山古墳群(17世紀)がある。
更に下って、西信貴ケーブル「高安山」駅に至り、「高安山の史跡案内」の石碑があり、高安出城(中世高安城)と倉庫跡、信貴山城の図が刻んである。
電車の場合は近鉄信貴線「信貴山口」より西信貴ケーブルで「高安山」に着き、徒歩でも行ける。
古代高安城の倉庫跡へは、駐車スペースの前に標識があり、左(東)に行きスカイラインを車に注意して横断し、300mほど行くと、倉庫跡標識がある。
そこを左折50m先に1号倉庫跡(地図)がある。北東に隣接して、2号倉庫の礎石が並んでおり「高安城倉庫址」の石碑、説明板が建てられている。
その北東に3号倉庫址の礎石群(地図)がある。さらに4~6号倉庫跡があるが今回日没で見られなかった。関西電力㈱送電線の下に5号倉庫跡がある。
【古代山城歴史】 天智天皇二年(663年)白村江(はくすきのえ)の戦いにおいて、百済復興を目指す倭国(後の日本)は新羅・唐連合軍に敗れ、新羅・唐の侵攻に備え西日本に築かれた城の一つである。
古代山城は、西日本各地に古代に造られた山城の中で、「日本書紀」「続日本紀」になんらかの記載がある諸城およびその系統の山城で12の城(高安城・屋嶋城・大野城・基肄城・金田城・鞠智城が存在、長門など六城は不明)がある。
また公的な記録になく、古代山城類似の遺構として神籠石式(こうごいししき)と称されている山城群があり、鬼ノ城・御所ヶ谷・永納山城など16城が発見されている。
長らく不明であったが、1300年後の今、高安城を探る会が倉庫跡礎石6棟分を発見、城の所在地を確認した。
高安城には築城後、機内の田税(たちから)である穀(もみ)と塩を蓄え、非常時に備えたが、672年の壬申の乱で倉庫は炎上、その後天武・持統天皇の時代に修築され、文武天皇の701年に廃城となったと、『日本書紀』『続日本紀』に見える。
【中世山城歴史】 戦国時代、永禄二年(1559年)に三好氏の重臣・松永久秀が信貴山城主となった。
松永久秀が古代高安城(たかやすき)の場所に出城として築いたと伝えられ、地名も字「出城」となっている。