麦島城 (むぎしまじょう) (国の史跡)
所在地 熊本県八代市古城町1719−2 2014.9.8
麦島城 (むぎしまじょう) (国の史跡)
所在地 熊本県八代市古城町1719−2 2014.9.8
シルバー人材センター・説明板
縄張り推定図
二の丸跡・麦島大神宮
麦島城 本丸跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 八代市シルバーワークプラザ(表記番地)入口付近に説明看板がある[マップコード128 282 212*56]。
1 階ロビーで建設工事前に見つかった石垣を見学することができる(平日のみ、祝祭日は休館)。
二の丸跡に麦島小学校が建てられ、後に麦島大神宮(地図)が建てられた。本丸跡は神社の西にあり、住宅地の間に、城跡標柱や説明板が建てられている。
【発掘調査】 平成に入って開発に伴う麦島城跡の本発掘調査が行われ、小西行長時代の本丸石垣、小天守が発掘された。現在、天守台、小天守、本丸石垣、本丸御殿、堀等、城郭のほぼ全てが埋められ地下に残されている。直接見ることはできない。
平成二十六年(2014年)3月18日、「八代城跡群」として麦島城跡が国の史跡に指定された。
【歴史】 天正十五年(1587年)肥後国領主となった佐々成政は肥後国人一揆を引き起こした責により翌年改易され、球磨郡を除く肥後国は加藤清正と小西行長が半国(宇土・益城・八代・天草)づつを領した。
宇土城主となった小西行長は古麓城を廃し、家臣の小西行重(末郷)に命じて球磨川の北岸に総石垣造りの麦島城を築城させた。
慶長五年(1600年)、小西行長が関ヶ原の戦いに西軍に付き敗れて斬首され、小西家は改易となった。
球磨郡・天草郡を除く肥後52万石を与えられた熊本城主加藤清正は、重臣加藤正方を麦島城城代として入れた。
元和の一国一城令によって熊本藩内の南関城・内牧城・佐敷城などが廃城となったが、麦島城は例外的に存続が認められた。
元和五年(1619年)の大地震のために倒壊したため、清正の子・加藤忠広は江戸幕府の許可を得て前川の北岸・松江の徳渕の近くに新たに松江城(八代城)を築き、元和八年(1622年)に竣工した。