茨木城 (いばらきじょう)
所在地 大阪府茨木市片桐町8−40 2014.5.17 2015.5.3
茨木城 (いばらきじょう)
所在地 大阪府茨木市片桐町8−40 2014.5.17 2015.5.3
復元櫓門
片桐氏茨木在城碑
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 茨木小学校西側の一方通行路の南側100mにある有料駐車場が利用できる[マップコード1 833 805*84](地図)。
現在の城跡は宅地化され、茨木神社表門(茨木市元町4‐3)に移築されたと言われている搦手門と神社の石垣がある。
茨木小学校東側(公道に面している)に復元された櫓門(地図)が、小学校北西角に「片桐氏茨木在城碑」の石碑(昭和三年十月建之)が建てられている(地図)。
【歴史】 茨木城の文献上の初見は、応仁の乱に東軍の安富元綱方に属していた野田泰忠が応仁元年(1467年)5月20日、『野田泰忠軍忠状』に「摂州茨木之城に陣を構えた」との記載が見受けられる。
文明十四年(1482年)に摂津で国人一揆が勃発、細川政元が鎮圧に乗り出した。まず同年六月に三宅城を攻略、ついで同年七月には茨木三郎が守る茨木城も攻略し、同年十月には吹田成枝が守る吹田城を落城させた。
一時衰退した茨木氏はその後盛り返し、茨木長隆が勢力を拡大、細川高国と細川晴元との対立では、晴元方について高国を敗死させ(大物崩れ)、天文七年(1538年)には守護代となった。
しかし、天文十七年(1548年)には晴元と三好長慶が対立するに至り、長隆は翌年の江口の戦いで敗北、戦死した。
茨木重朝に代が変わり、室町幕府の御家人として織田信長の摂津入国(永禄十一年(1568年))の際に臣従し、茨木の本領を安堵された。
茨木重朝は本圀寺(ほんこくじ)の変や野田城・福島城の戦いで高槻城主和田惟政と共に織田信長の先兵として戦ったが、元亀二年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで重朝・惟政と荒木村重・中川清秀の間で戦闘が勃発、重朝は惟政共々討ち取られてしまった。
天正五年(1577年)には中川清秀が正式に茨木城主となった。翌天正六年(1578年)に村重が織田信長に謀反を起こし(有岡城の戦い)、清秀も縁故の村重についたが、同年十月二十八日に信長の調略によって茨木城を開城し織田軍に寝返った。
天正十年(1582年)の本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えていたが賤ヶ岳の戦いで戦死した。
天正十四年(1586年)、息子の中川秀政は数々の功績が認められ、播磨三木城へ6万5千石で移封し、茨木の地は秀吉の直轄地となり、安威城の城主であった安威了佐、河尻秀長が代官として茨木城に詰めていた。
関ヶ原の戦いの翌慶長六年(1601年)に、片桐且元、貞隆兄弟が茨木城の城主となった。
慶長十九年(1614年)に方広寺鐘銘事件がおき、且元は秀頼の名代として仲裁に奔走するが、淀殿に疎んじられ、徳川方の内通者と疑いをもたれ、ついに豊臣家と袂を分かった。
慶長二十年(1615年)大阪夏の陣終了後、片桐且元は4万石、弟貞隆は1万6400石を与えられ、夫々竜田藩主、小泉藩主となったが、且元は慶長二十年(1615年)5月27日、徳川家康の居城・駿府城へ赴く途中に病死した。大坂城が落城した同年5月7日からわずか20日後のことであった。
元和元年の一国一城令により摂津では高槻城のみが残り、且元の息子片桐孝利は龍田城へ、貞隆は小泉城へ移っていった。
元和二年(1616年)の茨木代官の間宮三郎、立会人の城忠兵衛のもとで茨木城は取り壊され、約二百年続いた歴史に幕をおろした。