熊本城 (くまもとじょう) (千葉城・隈本城・銀杏城) (国の特別史跡・日本100名城92)(日本さくら名所100選)
所在地 熊本県熊本市中央区本丸 2013.5.30
熊本城 (くまもとじょう) (千葉城・隈本城・銀杏城) (国の特別史跡・日本100名城92)(日本さくら名所100選)
所在地 熊本県熊本市中央区本丸 2013.5.30
北東虎口・北十八間櫓
十四間櫓・四間櫓
高石垣と大天守
飯田丸五階櫓(工事中)
本丸御殿・大銀杏
大天守・小天守
宇土櫓・平左衛門続櫓
熊本城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 県道28号線より坪井川を渡った県道303号線の西沿いに有料駐車場が3ヶ所並んでいる。 また二の丸跡南に駐車場が用意されている(地図)[マップコード29 489 194*15]。
石段の登城口を登ると、東南石垣上の東竹の丸に源之進櫓・四間櫓・十四間櫓・七間櫓・田子櫓の重要文化財がならぶ。
本丸御殿の石垣の南をゆくと天守が見える高石垣がある。堀・高石垣の反りが素晴らしい。西に飯田丸五階櫓が復元されている。表門や本丸御殿や数寄屋丸が復元されている。
天守台には五重大天守・小天守が外観復元(1960年・RC造)され、西に宇土櫓・続櫓(地図)が残る。
天守は博物館となり展望台から東に熊本市街が、西に宇土櫓や土塀、熊本城公園、遠くに金峰山が望める。
北東の本丸隅に重要文化財の「不明門」、「五間櫓」、「北十八間櫓」、「東十八間櫓」が保存されている。ニの丸跡は本丸と薬研堀を挟んだ西側に芝生の二の丸広場、駐車場となっている。
昭和八年(1933年)1月23日、「熊本城」(宇土櫓、監物櫓など櫓11棟、門1棟、長塀1棟)として旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定され、2月28日「熊本城跡」として国の史跡に指定された。
昭和三十年(1955年)12月29日、「熊本城跡」として国の特別史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(92番)に選定された。
平成二十八年(2016年)4月14日から19日かけて発生した熊本地震で、天守屋根、天守石垣、飯田丸石垣等が損傷し、東十八間櫓、長塀等が倒壊した。
【歴史】 文明年間(1469~87年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城(本丸北東、現在の千葉城町)を築いたのが始まりである。
その後、出田氏が衰え、大永・享禄年間(1521~32年)菊池氏は代わりに託麻・飽田・山本・玉名四郡に所領を持つ鹿子木親員(寂心)に隈本城(本丸南西、現在の古城町)を築かせ、城主とした。
天文十九年(1550年)、豊後守護・大友義鑑(よしあき)が家臣の謀反により殺されると、義鑑の弟で菊池氏を嗣ぎ義鑑と敵対していた守護・菊池義武が隈本城に入り、寂心の孫・鹿子木鎮有はこれを迎え入れた。
しかし、義鑑の子・大友義鎮(よししげ)(宗麟)により追われ、以後は大友氏に協力した城親冬が居城とした。天正十五年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐に際し、島津氏に属していた親冬の孫・城久基は城を明け渡し筑後国に移った。
新たに肥後の領主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国人一揆を引き起こし、隈本城は国人衆による猛攻を受けた。
城代の神保(じんぼう)氏張が死守して落城を免れたが、天正十六年(1588年)成政は切腹を命じられ、閏五月十四日(7月7日)摂津国尼崎法園寺にて切腹した。
加藤清正が肥後北半国19万5千石の領主となり隈本城に入った。加藤清正は、天正十九年(1591年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山一帯に築城をはじめた。
慶長五年(1600年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの論功行賞で清正は肥後一国52万石の領主となった。慶長十一年(1606年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。
寛永九年(1632年)、清正の子・忠広は改易され、出羽庄内藩主酒井忠勝にお預けとなった。
代わって豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入り、明治維新まで細川家の居城であった。忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後歴代藩主はここを日常の居所とした。
明治四年、鎮西鎮台が設置された。二の丸を中心に1875年歩兵第十三連隊が置かれた。
明治十年(1877年)西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となる。西郷軍の総攻撃二日前、原因不明の出火で大小天守などの建物(同時に30日分の米、城下の民家約千軒)を焼失した。
昭和二十年(1945年)7月1日、市街地の20%を焼失した熊本大空襲など度々空襲に遭うも、奇跡的に焼失を免れた。戦後は、古城に県立第一高等学校が移転した。
昭和三十七~四十三年(1962~68年)にかけて再び二の丸の兵舎を利用して県立第二高等学校ができたが、のち移転し、現在は芝生の市民の憩の広場になっている。
また、文化面では、県立美術館、市立熊本博物館、旧細川刑部邸、藤崎台球場、監物台樹木園、加藤神社、国の合同庁舎、野球場の前には明治時代の招魂社があり、その後は熊本県護国神社になり現在に至っている。