平戸城 (ひらどじょう) (亀岡城・亀甲城・日之嶽城) (日本100名城90)
所在地 長崎県平戸市岩の上町1517 2011.10.5 2019.12.13
平戸城 (ひらどじょう) (亀岡城・亀甲城・日之嶽城) (日本100名城90)
所在地 長崎県平戸市岩の上町1517 2011.10.5 2019.12.13
二の大手門
二の丸西側虎口
乾櫓・土産案内所
地蔵坂櫓
北虎口門
模擬天守(西面)
平戸大橋・港・懐柔櫓
平戸城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【感想】 平戸瀬戸を望む標高約52mの丘陵にあり、北東の最高所に本丸、南に二の丸、西に三の丸が配置されている。
平戸松浦氏の居城で、枡形や高石垣などよく残っている。天守からは平戸の港や、平戸大橋の架かる平戸瀬戸の絶景が望める。
【案内】 二の丸西側の一方通行の道を行き、二の丸西側虎口前に駐車場が用意されている[マップコード 89 696 598*01]。
二の丸亀岡神社(表記番地)が建立され、亀岡公園となっている。
本丸には4重の模擬天守が建てられ、内部は松浦党などの資料館となっており松浦党関連史料、国の重要文化財の環頭大刀(亀岡神社蔵)、遣唐使船模型等が展示されている。
有料(大人510円・高校生300円・小中学生200円)で一般公開されている。
天守の東に2重の「見奏櫓」、「懐柔櫓」、西に2重の「地蔵坂櫓」、3重の「乾櫓」が昭和三十七年(1962年)復元されており、二の丸北側に「北虎口門」、「狸櫓」が現存している。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(90番)に選定された。
【歴史】 松浦氏は、始祖を嵯峨天皇の皇子源融(とほる)とし、平戸にはその 子孫で、第11代峯(松浦)持(たもつ)が、嘉禄元年(1225年)頃に平戸港北側に 「御館山城」を築いた。
以来、松浦氏は「御館山城」から、正平年間「白狐山城」(勝尾嶽城)に移った。
26代当主松浦鎮信(法印)は、豊臣秀吉の九州征伐に加わり松浦郡と壱岐の所領を安堵され、文禄・慶長の役後、慶長四年(1599年)現在の城地である日之嶽に築城を開始した。
しかし、完成も間近となった慶長十八年(1613年)、自ら火を放ち城を破却した。理由としては、豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府の嫌疑から逃れるためとも、最愛の嗣子久信の死によるものともいわれている。
3代藩主隆信は元和六年(1620年)頃に平戸港 の北側の「御館山城」跡の下方に「御館」を建設し藩庁とした。
元禄十五年(1702年)29代当主で4代藩主松浦重鎮(鎮信)は幕府に築城を願い出て、翌年の元禄十六年(1703年)許可された。
鎮信(天祥)は山鹿素行の弟子であり、山鹿流軍学に基づく縄張りがなされた。実子の山鹿高基・義昌の兄弟が藩士として迎えられ、築城指導は山鹿義昌によってなされた。
元禄十七年(1704年)二月、5代藩主松浦棟(たかし)によって着工され、宝永四年(1707年)に完成した。 天守は上げられず、二の丸に建てた三重三階の乾櫓をその代用としていた。
明治四年(1871年)廃藩置県により廃城となり、翌年、現存する狸櫓と北虎口門(搦手門)を残し、城の建物は解体された。