本明城 (もとあけじょう) (福屋城・乙明城・音明城)
最寄地 島根県江津市有福温泉町本明488 2018.5.8
本明城 (もとあけじょう) (福屋城・乙明城・音明城)
最寄地 島根県江津市有福温泉町本明488 2018.5.8
登城ルート(緑線は車道)
略測図
表記番地民家横の駐車場・登り口
2の鳥居・石段
主郭・金刀比羅神社
城跡標柱
西3番目の郭
本明城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高270m】
【感想】 標高417.1mの本明山頂上に主郭を置き、東西方向に伸びた尾根上に曲輪群を配した連郭式山城である。
登り口から遊歩道が設けられ所要時間は約40分で金刀比羅神社に着く。 浅い堀切など認められるが、防御施設は意外と少ない。
【案内】 県道50号線から本明地区に入る道に案内標識が建てられ、西に約450m行くと案内図が建てられている[マップコード241 355 732*20]。
そこから南に狭い道を約400m行った表記番地の民家脇に駐車場、登り口がある[マップコード241 355 532*83](地図)。
そこからの約950m行くと一の鳥居に着き、約330m行くと不動の湧水がある。その先を右に九十九折の道を200mほど登ると二の鳥居に着く。
鳥居の東に東郭があり3段の段郭がある。鳥居より西に石段を登ってゆくと、岩場に着き三角点がある。西に金刀比羅神社があり2段になった主郭がある。
その西に100mから150m間隔で、郭があり4番目手前まで行ってみた。
昭和五十五年(1980年)7月14日、江津市の史跡に指定された。
【歴史】 天福二年(1234年)福屋兼広によって築かれたと云われる。 福屋氏は七尾城主益田兼高の三男兼広が、天福元年(1233年)に那賀郡阿登郷福屋郷の地頭職となって福屋氏を名乗った。
建武二年(1335年)足利尊氏が朝廷に反旗を翻すと 宗家益田兼見は足利尊氏に味方したが、福屋氏は同じく益田氏庶家の三隅氏や周布氏などに共に朝廷方として戦った。
福屋氏12代隆兼は天文九年(1540年)尼子晴久の吉田郡山城攻めに従軍したが、この戦いに敗れたことを契機に、大内氏に従う。
しかし天文二十年(1551年)八月、大寧寺の変で大内氏が滅亡すると、毛利氏に従った。
永禄二年(1559年)毛利氏は温湯城主小笠原長雄を降すと、小笠原氏の本領のうち温井城を接収し、替え地として伊田・羽住(波積)を小笠原氏に与えた。福屋隆兼はこれを不満とした。
永禄四年(1561年)隆兼は遂に毛利氏を離反して尼子氏につき、鰐走城主牛尾久信や温惟宗などと、毛利方の吉川経安の守る福光城を攻めたが、吉川元春と宍戸隆家の援軍により福光城は落ちず、隆兼は松山城へ退いた。
翌永禄五年(1562年)には松山城も攻められ落城した。福屋隆兼は尼子氏を頼って逃亡したが、尼子氏に受け入れられず、出雲を出て大和の松永氏に従った。その後、本明城は毛利氏の支配下となった。