洲本城 (すもとじょう) (三熊城) (国の史跡)
所在地 兵庫県洲本市小路谷1272−2 2014.5.17 2020.2.2
洲本城 (すもとじょう) (三熊城) (国の史跡)
所在地 兵庫県洲本市小路谷1272−2 2014.5.17 2020.2.2
居館跡・隅櫓台・城跡碑
大手門跡石垣
南の丸隅櫓跡
本丸大石段
天守石垣
西の丸
洲本城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 洲本市の標高125mの三熊山に築かれている。麓より城跡南まで車道があり、駐車場が用意されている[マップコード210 319 000*68](地図)。
北にすぐ大手門跡があり、南に馬屋(月見台)、南の丸、本丸がある。本丸跡には石段、虎口が良く残り北西隅に天守台があり、模擬天守(展望機能はない)が聳える。
昭和三年(1928年)昭和天皇の即位式を記念して鉄筋コンクリートで築造され、江戸時代の天守を復元したものではないが、模擬天守としては日本最古のものである。
本丸の東に八王子木戸、東の丸、東二の門、武者溜り、東一の門と並んでいる。本丸の南東の低地に井戸、池がある。
本丸の西に籾蔵、西門、離れて西の丸がある。西の丸は花木の植栽が施されている。城跡全体に、石垣が良好に保存されており、随所から洲本市街や洲本港、大阪湾が望める。
「下の城(お居館)」の跡地にはかつての洲本城(上の城)に関する資料を展示する洲本市立淡路文化資料館(洲本市山手1‐1‐27)や裁判所、検察庁、拘置所がある(地図)。
平成十一年(1999年)1月14日、国の史跡に指定された。
【歴史】 大永六年(1526年)、三好氏の重臣・安宅治興が築城した。
治興の後は養子安宅冬康(三好長慶の弟)、冬康の歿後は長男信康、二男清康へ受け継がれ、天正九年(1581年)の淡路討伐の際、総大将羽柴秀吉に降り、城は仙谷秀久に与えられた。
しかし、天正十四年(1586年)秀久は九州征伐の際に軍律違反を犯して高野山へ追放され、かわって脇坂安治が城主となり、天守が造営されるとともに、石垣の大改修の際、倭城(文禄・慶長の役に際して秀吉軍が朝鮮半島南部各地に築いた日本式の城(城砦群)を、朝鮮側が呼ぶ呼称。)での経験から「登り石垣」が築かれた。
慶長十四年(1609年)脇坂安治は大洲城に移された。
慶長十五年(1610年)姫路城主池田輝政の三男忠雄(ただかつ)が領主となった際、輝政は岩屋城を築き、重臣に淡路を支配させ洲本城は廃城となった。
慶長十八年(1613年)次に由良成山城(洲本市由良)を築いた。
慶長二十年(1615年)大坂夏の陣の後、徳島藩の蜂須賀至鎮(よししげ)の所領となり、筆頭家老の稲田氏一族が由良成山城代となった。
しかし、交通の便が悪いなどの理由から寛永八年(1631年)から寛永十二年(1635年)にかけて由良成山城を廃して洲本城の山上の城郭は使わず、麓に「お居館」と呼ばれた堀石垣を備えた居館を設けて、本拠とした。
この移転は城下町ごとの大移転であったため俗に「由良引け」と呼ばれている。徳島藩蜂須賀氏の支配が、明治四年(1871年)の廃藩置県まで続いた。