吹田城 (すいたじょう) (石浦城)(いそらじょう)
所在地 大阪府吹田市出口町4 2015.5.3
吹田城 (すいたじょう) (石浦城)(いそらじょう)
所在地 大阪府吹田市出口町4 2015.5.3
模擬虎口・石垣
模擬門
庭園・休憩所
句碑
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 石浦城は片山公園、アサヒビール迎賓館、アサヒビール吹田工場敷地を含む1haの規模と推定されている。
駐車スペースは少ないが、愛宕神社前に路駐した[マップコード1 647 317*47]。少し西の片山公園(表記番地)の、南側入り口に石垣が組まれ、門が建てられている(地図)。
小高い上部は池のある庭園となり、休憩所が建てられ、句碑「緑蔭のひとつの石に日の当たる」が設置されている。
【歴史】 『摂津志』によると、永禄年間には吹田重通が吹田城に居城していた。
その後『応仁記』によると応仁元年(1467年)の応仁の乱直後に、三宅氏(三宅城)、茨木氏(茨木城)、芥川氏(芥川城)の国人衆らと吹田氏は東軍に属し京都で戦いを繰り返した。
しかし、文明十四年(1482年)細川政元の国人一揆制圧の中、『大条院寺社雑事記』によると、吹田重通は摂津国守護代・薬師寺元長に追われ、以後吹田城は薬師寺元長に与えられた。
大永六年(1526年)、香西元盛と細川伊賢との角逐に端を発した争い(八上城・神尾山城の戦い)は、細川高国と細川澄元の合戦へ拡大していった。
細川高国軍に与していた池田城を、細川澄元軍が中之島まで挙兵し、それ応じた三宅氏、吹田氏は吹田城周辺に陣を構えたが、伊勢国神戸衆、伊丹衆に攻められた。
『足利季世記』によると、この時吹田衆を率いていたのは吹田美童で討ち取られてしまった。『日本城郭大系』では「吹田城の荒廃はこののちのことであろう」と記載している。
しかし『市史点描』によると「1571年、信長方の武将、和田惟政が三好三人衆に味方したと思われる吹田氏を攻め、吹田城を攻略、57の首級をあげた。この戦は戦国時代の終末を示す吹田地域最期の激戦」としている。
『吹田城散華』によると「吹田因幡は、はじめ三好三人衆に通じていたから、元亀二年(1571年)和田惟政の吹田攻略に倒れ、その娘を縁組して、荒木村氏(『寛政重修諸家譜』によれば荒木村重の異母弟)が入婿となったのである。吹田城はこの時から、荒木の城となったといえる」としている。
また『吹田城散華』では「荒木は、池田を焼き払う。恐らく吹田城も焼き払って、城主一族ともども伊丹に集結した」とある。
また『わが町すいた』によると「天正六年(1578年)荒木村重とともに織田信長に反旗をひるがえし、翌7年非業の最期を遂げた吹田氏の居城の跡」とし、有岡城の戦い迄は存在していたとしている。『ウイキペデイア』より。