平山城 (ひらやまじょう) (平安城・帖佐本城・内城) (市の史跡)
所在地 鹿児島県姶良市鍋倉1129-1 2018.12.13
平山城 (ひらやまじょう) (平安城・帖佐本城・内城) (市の史跡)
所在地 鹿児島県姶良市鍋倉1129-1 2018.12.13
登城ルート(緑線は車道)
堀跡
八幡神社
八幡神社・城跡標柱
拝殿裏・土塁
西側空堀
南城虎口
南城
平山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 姶良市鍋倉の別府川左岸の標高125mの丘陵に築かれている。堀跡の道路で隔てられて、南北に夫々城があったと思われる。
南城は桜が植えられ公園となっており、錦江湾や桜島を望むことが出来る。
【案内】 稲荷神社(姶良市鍋倉778:帖佐館)の東側より約800m北上すると、林道との分岐となりそこを右へ約350m行く。その先の八幡神社(表記番地)の駐車場が利用できる[マップコード42 586 639*74]。
八幡神社拝殿左に城跡標柱が建てられ、裏山が城跡で、空堀、土塁が残っている。堀跡の道路を挟んで南に南城が桜公園や地デジテレビ基地局、携帯基地局となり、土塁が見られる。
姶良市の史跡に指定されている。
【歴史】 弘安五年(1282年)頃、京都の石清水八幡宮から神領管理の為に下向した善法寺法印了清によって築かれたと云われる。 了清は平山氏を称し、平山氏代々の居城となった。
享徳年間(1452~54年)初期に島津忠国に反抗して平山氏9代武豊は指宿へ移され、島津李久の所領となった。
李久は瓜生野城(建昌城)を築いて居城とし、平山城には2男忠康を配し、平山氏を継いだ。
平山氏は後に日向国松山城へ移り、明応四年(1495年)には帖佐は川上忠直が領し、辺川氏を称した。同年加治木久平が攻め寄せ南城を奪ったが、辺川忠直は高尾城に籠って固守し、島津忠昌の援軍によって久平は退いた。
大永六年(1526年)出水領主、島津実久が島津氏に叛くと、忠直はこれに与し、島津忠良はこれを攻めおとし、島津昌久を地頭とした。
しかし大永七年(1527年)島津昌久は加治木の伊地知重貞と謀って叛き、忠良は加治木を攻めて重貞を討ち取った後、平山城を攻めた昌久を討ち伊地知重辰を地頭とした。
重辰は享禄二年(1529年)祁答院重武によって攻められ討死した。祁答院氏は子の良重の代まで勢力を広げたが、天文二十三年(1554年)岩剱城で島津氏に敗れ、弘治元年(1555年)祁答院へ退いた。島津貴久は鎌田政年を地頭とした。