高取城 (たかとりじょう) (芙蓉城・鷹取城・高取山城) (国の史跡・日本100名城61)
所在地 奈良県高市郡高取町高取 2013.9.5
高取城 (たかとりじょう) (芙蓉城・鷹取城・高取山城) (国の史跡・日本100名城61)
所在地 奈良県高市郡高取町高取 2013.9.5
登城ルート
太鼓御櫓台・新御櫓台
本丸石垣
天守台石垣
十五間多聞櫓跡
大手門跡
壺阪口門跡
高取城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★ 比高40m】
【感想】 日本三大山城(岩村城、高取城、備中松山城)の一つで、高取町の標高583.6mに築かれている。
本丸の北西に二の丸、その北側に三の丸がある。本丸は東西40間余南北35間余で大小天守、鉛櫓、煙硝櫓を多聞櫓と土塀で接続する連立式城郭であった。
城跡一帯に残る石垣は壮大でその威容を偲ぶことが出来る。虎口石垣は美しい。大手方面に下っていくと門跡の石垣が点在している。
【案内】 国道169号線「清水谷」交差点より県道119号線を約5㎞行った終点の高取山の山頂にある。
城跡へは西の壷阪口[マップコード36 354 066*40](地図)と南東の県道119号線終点[マップコード36 354 044*54](地図)と北の二の門口の3ヶ所から行ける。
壷阪口からは徒歩で比高約100mである。
壷阪口より300m行った県道119号線終点から比高40mの山頂へ登る途中に井戸跡がある。登り詰めると壷阪口中門跡石垣が良く残る二の丸跡である。東の高石垣が本丸である。
昭和二十八年(1953年)3月31日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006)に、日本100名城(61番)に選定された。
【歴史】 南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が元弘二年/正慶元年(1332年)に築城したのが始まりと伝えられている。当初は越智氏の本城である越智城の詰城として貝吹山城を築き、高取城を支城としていた。
天正十三年(1585年) 豊臣秀長が大和郡山城に入り、高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入り、後に同じ重臣の本多利久に与えられた。
天正十七年(1589年)、本多利久は家臣諸木大膳に命じて、新しい縄張りにて築城、大和郡山城の詰城として大修築を行い堅牢な城となった。
利久は、天正十九年(1591年)に没した秀長の後嗣となった豊臣秀保(秀吉の姉の子)に仕えた。
文禄四年(1595年)、秀保が十七歳で没した後、利久の子・俊政は秀吉の直臣となり1万5千石が与えられた。
秀吉没後に、本多俊政は徳川家康についた。慶長五年(1600年)、家康の上杉景勝討伐の際に、俊政は討伐軍に加わり不在であったため、隙に乗じ、石田三成が兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害で西軍を敗退させた。
俊政は関ヶ原の戦いの後、軍功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。
俊政の子の政武は、寛永十四年(1637年)嗣子なく没したため、本多氏の支配は終焉した。
その後、桑山一玄(大和新庄藩主)と小出吉親(丹波園部藩主)が城番となったが、寛永十七年(1640年)旗本の植村家政が2万5千石の大名に取り立てられ城主となった。以後、明治維新最後の城主植村家壷まで植村氏が14代にわたって城主となった。
幕末には、山上二の丸にあった藩主御殿は山麓に移され、天誅組の変で攻撃を受けた。
明治二年(1869年)六月、版籍奉還により兵部省の管轄となり明治六年(1873年)廃城となった。
入札により建造物の大半が近隣の寺院などに売却された。明治二十年(1887年)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたが人里離れた山頂であるため管理されずに自然倒壊した。