田辺城 (たなべじょう)
所在地 和歌山県田辺市上屋敷3丁目 2016.4.26
田辺城 (たなべじょう)
所在地 和歌山県田辺市上屋敷3丁目 2016.4.26
水門説明板
田辺城水門・石垣
田辺城跡 水門(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 遺構はほとんど無いが、会津川の河口左岸と海に隣接していた埋門形の水門と石垣が残っている。
錦水神社の左より石段を下りると、石垣と水門が見られ、会津川に出る事ができる。
【歴史】 慶長十年(1605年)に洲崎城が波浪によって破壊されたことを受けて、慶長十一年(1606年)に浅野家の家老・浅野知近によって築かれた。
元和元年(1615年)の一国一城冷の後は改築して陣屋とされ、元和五年(1619年)までは氏重が城主であった。
当時から城郭は整備されていたと考えられるが、『田辺町大帳』によると、同年に紀州徳川家が転封されて付家老の安藤直次が3万石を受領して田辺に入城した際には城がなく、旧家を宿としたともいう。これは前記の改築が続いていたためともされる。
以降は明治時代まで安藤氏が城主を務め、与力・同心の給禄を合せて3万8,800石の規模であった。
寛政三年(1791年)に大島樫野浦(現・串本町、紀伊大島樫野埼)にアメリカ船が来航してから沿岸警備がより厳重になり、田辺城でも大規模な改修が行われた。
『田辺沿革小史記事本末』には、天保二年(1831年)の改修で、それまで竹垣で囲っていた塁上の柴垣に壁を設けて銃眼を穿った、記録がある。
文久三年(1863年)には外国船からの攻撃を恐れて下万呂(現・田辺市下万呂)に城の移築を決め、年末には工事に着手したが、翌年に工事延期を通達したまま取り止めになっている。
慶応四年(1868年)に16代目の安藤直裕は紀伊田辺藩として独立し、翌明治二年(1869年)には同心60名をその給禄とともに紀州藩に還付している。
明治四年(1871年)の廃藩置県と同時に城は払下げられ、城郭は破却された。城跡には多くの民家が建てられ、錦水町という地名になっている。
そのため、現在は一部の石垣と水門が残るだけである。『ウィキペディア』より。