内城 (うちじょう)
所在地 鹿児島県鹿児島市大竜町11−44 2014.5.11
内城 (うちじょう)
所在地 鹿児島県鹿児島市大竜町11−44 2014.5.11
大龍遺跡説明板
大龍小学校
大龍小学校
上之馬場跡碑
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 清水城跡の南約1㎞に位置し、大龍小学校(表記番地)の敷地になっている。
「大龍小東角」交差点脇に「上之馬場」の石碑(地図)が建てられ[マップコード42 067 357*83] 、南の校門西に開校当時の石の校門が保存され、「大龍寺之遺址」の石碑及び「大龍遺跡」の看板がある(地図)。
【歴史】 天文十九年(1550年)、十五代当主・島津貴久はそれまで島津本宗家が使用していた清水城が手狭になったため、海岸に近い場所に居城を移した。これが内城である。
後詰めの城として平安時代末期から続いていた東福寺城(鹿児島市清水町32東郷平八郎像の北東100m)があり、内城自体は簡単な屋形作りの平城であったと思われる。
その後、十六代当主・島津義久が在城し、文禄四年(1595年)まで住んでいたが、豊臣秀吉の圧力のため隠居させられ、富隈城に移転した。
その後、この城は十八代島津忠恒の居城となったが、忠恒は朝鮮出兵で国元にはおらず、ほとんどこの城を使うことはなかったと思われる。
慶長七年(1602年)、忠恒の命により島津氏の本城は鹿児島城に移り、内城跡には島津貴久と義久の菩提寺である大龍寺が建てられ、南浦文之が開山となった。ちなみに「大龍」の名前は貴久と義久の戒名から取られた。
そして、明治二年(1869年)の廃仏毀釈により大龍寺は廃寺となり、跡地は大龍小学校となった。もちろん城郭としての遺構は完全に破壊されて残っていない。