伊丹城 (いたみじょう) (有岡城) (国の史跡)
所在地 兵庫県伊丹市伊丹1‐12 2014.5.1
伊丹城 (いたみじょう) (有岡城) (国の史跡)
所在地 兵庫県伊丹市伊丹1‐12 2014.5.1
虎口石垣・城跡碑
本丸・土塁・石垣
礎石建物跡・井戸
堀跡
猪名野神社
岸の砦土塁
伊丹城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 JR福知山線伊丹駅の西に、本丸跡は有岡公園(表記番地)となっており、本丸の北から西に堀跡があり、本丸には石垣が残り、虎口に城跡碑が建てられている。
石段を登ると、本丸跡に建物礎石、井戸が二本残り、北に土塁の石垣が残っている。
城跡の南に有岡城で亡くなった人達の慰霊碑がある荒村寺(伊丹市伊丹1-15-2)がある。
また、北西500mの猪名野神社(伊丹市宮ノ前3‐6)境内北西に「岸の砦」の土塁が残っている(地図)。
南西に謀反後に処刑された荒木家由来の人々の墓所・墨染寺(伊丹市中央6‐3‐3)がある。
昭和五十四年(1979年)12月18日、国の史跡に指定された。
【歴史】 南北朝時代、摂津国人の伊丹氏によって築城され、伊丹城を中心とした地域を支配した。
室町時代からは摂津の有力国人として細川氏に仕え、応仁の乱では東軍に味方した。
ところが、戦国時代、細川高国に味方した伊丹元扶(もとすけ)が享禄二年(1529年)に討死、子の伊丹国扶(くにすけ)が享禄四年(1531年)6月の「大物(だいもつ)崩れ」の合戦で討死するに至り、元扶の甥・伊丹親興は三好氏の配下の武将となり、畠山氏との戦い(教興寺の戦いなど)に参戦した。
永禄十一年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて入京すると、親興は信長に恭順の意を示し、和田惟政や池田勝正らと共に摂津三守護に任じられた。
しかし、元亀二年(1571年)以降、信長と義昭が対立するようになり、親興は義昭に味方して反信長に加わったため、天正二年(1574年)十一月五日には、信長の命を受けた荒木村重によって伊丹城を攻め落とされ、親興は自害した。
同年、村重は伊丹氏の伊丹城を大改修し、有岡城と改称した。天正六年(1578年)七月荒木村重は謀反を起こし、有岡城は織田信長に攻められ持久戦となったが、翌天正七年十一月落城した。
生き残った妻子や家来は尼崎七松で処刑された。村重はその後生き残り、「道糞」と名乗り茶人となり、後に「道薫」と改めた。
池田知正も妻子を尼崎七松で処刑されたが、秀吉の家臣になった。天正八年(1580年)池田之助が城主になった。
天正十一年(1583年)池田之助が美濃に転封されることにより、廃城となった。
明治二十六年(1893年)鉄道敷設の為、当城の東側が破壊された。