港山城 (みなとやまじょう)
最寄地 愛媛県松山市港山町4‐22 2014.5.15
港山城 (みなとやまじょう)
最寄地 愛媛県松山市港山町4‐22 2014.5.15
登城ルート
登り口・説明板
説明板
2郭
主郭
港山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高45m】
【案内・感想】 県道19号線より伊予鉄道高浜線「港山駅」の西側踏切を渡り南に約100m行った「港山集会所」(表記番地)がある。その向かいの地蔵堂北に説明板が立てられ、登り口がある[マップコード53 400 745*46](地図)。
城跡は竹林となって手入れされず荒れている。途中曲輪や土塁が確認できる(三つの曲輪、石積み、井戸跡が残っている)。標高50m頂上の平地が主郭跡である(竹林となっており筍が多数出ている)。
海に面した南麓には湊三嶋大明神社がある。三津の港を見下ろす丘の上にあり、港の警護と監視、有事の際に軍船で出撃するにはうってつけの立地であったと思われる。
東西に細長く主郭と2郭が伸びていた。現在、面影はないが、かつては海岸線が入り組んでいて島のような状態であったという。
【歴史】 河野通信が文治二年 (1186年)に築いたとの説と、建武年間(1334~36年)、河野通盛が風早郡河野郷(現在の松山市北条付近)から湯築城に移った際に、海の守りとして築城した説、 また応仁元年 (1467年)に河野予州家の武将河野通春が築城したとする説がある。
河野氏本宗家と予州家との内訌(内戦)において、予州家の河野通春が居城した。周防の大内氏と結び勢力を伸ばしていた通春は、文明十年(1478年)と文明十三年(1481年)の二度にわたり、本宗家・河野教通と戦をし、流れ矢に当り戦死し、落城した。
本宗家の手に渡った湊山城には河野氏の水軍衆が置かれ(湊山衆)忽那(くつな)氏が統率し、伊予にたびたび侵入した大内氏や毛利氏との争いにおいて、防衛の要として重要な役割を果たした。
天正十三年 (1585年)六月の豊臣秀吉の四国征伐に伴って、伊予に攻め寄せた小早川隆景の伊予平定軍の攻撃で落城し廃城となった。
落城と同じ年、長宗我部元親が伊予を制圧してほぼ四国統一を果たしていたとされており、四国征伐の際には港山城も長宗我部氏の支配下にあった可能性がある。河野氏の本宗家が居城とした湯築城から距離があり、水軍衆と本宗家の内訌の原因になったという。
宮前川(中川)が注ぎ込む三津の内湾が城の直下にあって天然の港となっていて地の利は覆しがたく、廃城ののち江戸時代になってからも松山藩の船奉行と軍用船が置かれるなど水軍の根拠地であり続けた。
港山城の城兵が毎朝、三津の渡し(現在は市道の一部として無料渡船が運行:地図)を渡って須崎の浜(現在の三津浜)で米穀や魚を買い求め、それが現在まで続く三津の朝市の始まりになったと言われている。