建部山城 (たけべやまじょう) (八田城・田辺城)
所在地 京都府舞鶴市喜多 2017.5.4
建部山城 (たけべやまじょう) (八田城・田辺城)
所在地 京都府舞鶴市喜多 2017.5.4
登城ルート
入口・案内板
登り口
頂上南東の平坦地
弾薬庫跡
土塁・案内板
建部山城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高300m】
【感想】 山頂に馬車で建設資材を運び上げたであろう幅3mほどのなだらかな道が約2.4km続いており、軍道と思われる。
頂上には、曲輪跡、土塁などが僅かに残っているが、明治に築かれた砲台の弾薬庫などが残っている。頂上は樹木などが鬱蒼としており、眺望はきかなかった。
【案内】 府道601号線の建部山東麓の団地西に4台分の駐車場が用意されている[マップコート174 726 149*07](地図)。当日は満車のため府道に路駐した。
入口に案内板が建てられ、軍道を40分程度ジグザグに登ると、山頂に着く。途中の木の間から舞鶴湾の絶景が望める。
標高315.5mの建部山は「田辺富士」「丹後富士」と呼ばれる優美な山でハイキングコースとなっている。
明治に陸軍による舞鶴軍港防衛の砲台が設けられ、戦国時代の遺構は、ほぼ消滅している。
【歴史】 南北朝時代の建武三年(1336年)に南朝に味方した豪族によって築城されたとの伝承がある。
観応の擾乱(1349~52年)の時に足利軍によって、北朝側の拠点になった。丹後国の守護として足利氏の一門であった一色範光が入ると、建部山の麓にある八田に丹後守護所を構え一色氏代々の居所と定め、背後の建部山に城を築き、詰城とした。
一色氏当主が室町幕府の重職(侍所長官・山城守護)に任命され不在の時は、一門の者が留守を預かり、重臣が補佐した。
戦国時代一色氏代々の居城として続いたが、天正七年(1579年)に織田信長の命を受けた長岡(細川)藤孝が丹後を攻撃、各地で長岡氏に敗れた一色軍は建部山城に篭城するが長岡軍の猛攻の前に落城した。
『一色軍記』によれば、長岡軍に敗れた丹後守護一色義道は、近くの中山城(舞鶴市)に移ったが、同城主中山幸兵衛の裏切りにより自害した。
織田政権下で丹後は一色氏・長岡氏によって二分され、武将の一人として存在が許されていた一色義道の子である義定が当主であったが、居城は弓木城に移った。
しかし、本能寺の変後の混乱の最中に義定は藤孝の居城宮津城に誘い出されて暗殺された。
豊臣秀吉によって丹後国を任された藤孝は、良港を抱える宮津城を本拠とする一方、加佐郡における拠点としては平地部にあった八田守護所を改修し田辺城を築城したために、山城である建部山城は廃城となった。