砥石城 (といしじょう) (砥石山城)
最寄地 岡山県瀬戸内市邑久町豊原885 2014.9.2
砥石城 (といしじょう) (砥石山城)
最寄地 岡山県瀬戸内市邑久町豊原885 2014.9.2
登城ルート
県道側(北)登り口
本丸
本丸・金比羅宮
本丸西側石垣
宇喜多直家生誕之地碑・東登り口
砥石城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高90m】
【案内・感想】 県道231号線より東に折れ、南に行った表記番地の西に登り口があり、「宇喜多直家生誕之地」の石碑が建てられている[マップコード151 220 077*18](地図) 。また北側の県道226号線と県道231号線の交差点南からも登れる[マップコード151 220 380*23] 。
比高約90mの山頂の本丸は東西約15m、南北約30mと細長く、由来説明板、縄張り図が建てられ、中央に金比羅宮が祀られている。
本丸西側に石垣が残るが、これは江戸時代末期天保年間に本丸付近に存在した金比羅宮の石垣跡であり、天守などがあったわけではない。
本丸北に一段ずつ下がって三つの曲輪があり、南に出曲輪がある。また本丸の南西200mの谷を隔てた尾根に出丸と三つの郭がある。
昭和六十一年(1986年)12月24日、邑久町の史跡となっている。
【歴史】 江戸時代の記録『備前軍記』には大永年間(1521~28年)備前国守護代浦上村宗の家臣宇喜多和泉守能家(直家の父)が築城したと記されている。
備前国の中心地、福岡の町や西大寺の町をそれぞれ見据えた重要拠点の一つといえる。
この築城の際に宇喜多直家の曽祖父である宇喜多久家がなんらかの形で関わっていたのかは判らないが、城番として宇喜多氏が居住するようになった。その後二男浦上宗景に仕えた。
天文三年(1534年)に、同じ浦上氏家臣の高取山城主島村豊後守盛実らに離反の疑いをかけられて夜討ちによって、能家は自害、興家と、わずかに八歳の幼子だった直家は放浪することとなった。
浦上宗景は砥石城を島村盛実に与えず、協力した浮田国定(能家の弟)に与えた。
その後浦上宗景の下で再興を果たし乙子城主となった直家により天文十六年(1547年)備中三村氏に内通した砥石城主浮田大和守を、主君宗景の軍と合して攻め落し、城主に舎弟の浮田春家を任じた。
その後、直家が戦国大名に成長し、天正元年(1573年)岡山城主になると、春家を沼城に移し、武将に砥石城を守らせた。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いで、西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となった。それを最後に歴史の表舞台から消えてしまい、詳細は不明である。