水城 (みずき) (国の特別史跡)
所在地 福岡県太宰府市水城1‐1 2014.5.8
水城 (みずき) (国の特別史跡)
所在地 福岡県太宰府市水城1‐1 2014.5.8
県道東の土塁・展望台・東門礎石
東門礎石・水城阯碑
県道西の土塁・高さ9m(樹林)
県道西の土塁
西側の土塁
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道112号線「水城3丁目」交差点付近に東門礎石(地図)が残り、東土塁を含め公園となっており、少し南側に駐車場がある[マップコード55 360 126*06]。
東門より南西方向に伸びる土塁が、御笠川を越え鹿児島本線水城駅の南付近まで築かれていた。
上成土塁は樹木に覆われている。下成土塁は芝が植えられよく手入れされ、堀は点在し池をなしている。
水城は、博多湾方面からの攻撃から大宰府を守るための防御線となる直線状の堀と土塁である。土塁は、高さ9m以上、幅80m、長さ1.2㎞あり、その博多湾側にあった堀は、幅60m、深さ4mで水を貯えていたという。
土塁には2箇所に開口部があり、そこに門があったことが発掘によって確認されている。土塁の内部には、御笠川から堀に水を流すための木樋が通っている。
南西の尾根を越えた場所には、現在は小水城(しょうみずき)と呼ばれる長さ80mの土塁がある。
昭和二十八年(1953年)3月31日、国の特別史跡に指定された。
平成二十一年(2009年)2月21日、大土塁の博多湾側の濠を含む一部が追加指定された。
【歴史】 『日本書紀』によると663年、倭国は百済に味方して朝鮮半島で唐・新羅連合軍と戦い大敗した(白村江の戦い)。
当時中大兄皇子は、唐・新羅が博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し、万一に備えて翌664年に水城を築かせた。
翌665年には北九州から長州沿岸にかけて大野城、基肄城、長門城などの古代山城(朝鮮式山城)を築かせた。
667年には内陸部の近江大津宮に遷都した。その翌年の正月に中大兄皇子はやっと即位した(天智天皇)。
築城にあたっては、亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)が建設の指揮を執った。
後年、文永の役(1274年11月11日~26日)では、襲来する蒙古軍に対する防衛線として改修が施されたが、実際に戦場となることはなかった。