景石城 (かげいしじょう) (磯部城・磯辺城)
所在地 鳥取県鳥取市用瀬町 2020.5.6
景石城 (かげいしじょう) (磯部城・磯辺城)
所在地 鳥取県鳥取市用瀬町 2020.5.6
登城ルート(緑線は車道)
城址碑・説明板・登り口
西側の堀切
2の丸
石垣
本丸
石垣
景石城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高140m(駐車場より)】
【感想】 用瀬(もちがせ)集落東の標高325.2mの山頂に築かれている。
本丸は東西に細長く西側、南側に石垣がよく残っている。北西下段に2の丸、その西下段に3の丸があり、虎口が残り西尾根に巨石のある堀切とそれに続く竪堀がよく残っている。
本丸から南に下ると子持松砦へ尾根伝いに行ける。
【案内】 鳥取市用瀬町用瀬の旧道より東に市道を登ってゆくと、林道入口があり案内図、城址碑が建てられている[マップコード125 010 828*02]。
約400m舗装道を登った終点に駐車場が用意されている。少し戻った所に登り口があり、城址碑、説明板が建てられている(地図)。
そこから本丸まで遊歩道が設けられ、地元の城跡保存会により各所に標識が設けられ、整備保存活動が行われていた。
【歴史】 築城時期は不明であるが、南北朝時代、国人領主の用瀬氏が築城したといわれる。
『太平記』によれば延文五年(1360年)、赤松世貞らによって落城させられたという。その後因幡守護・山名時氏によって奪還された。
戦国時代には用瀬左衛門尉が居城した。
天正八年(1580年)豊臣秀吉が鳥取城攻略に先立ち、磯部兵部大輔豊直に景石城を攻めさせ、山名勢を追い払い、磯部を城主として鳥取城への備えとした。
ところが、磯部豊直が若桜鬼ヶ城に所用のため不在の折り、鳥取山名に攻め落とされた。
翌、天正九年(1581年)秀吉が鳥取城を攻略し、落城させた。その際磯部豊直は許されて再度景石城主となった。
以来、城下町として用瀬宿を発展させたが、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍に味方し改易された。
替って智頭八東2郡の領主となった山崎左馬介家盛の持ち城となった。元和元年(1615年)一国一城令により廃城となった。