山之口城 (やまのくちじょう) (亀鶴三石城)
最寄地 宮崎県都城市山之口町山之口494 2019.5.5
山之口城 (やまのくちじょう) (亀鶴三石城)
最寄地 宮崎県都城市山之口町山之口494 2019.5.5
登城ルート
城跡標柱
釣堀の左側を進む
西郭の切岸
中央郭
中央郭・東側土塁
中央郭東の堀切
山之口城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【感想】 東岳川と古大内川に挟まれた城山から西に伸びる標高211mの尾根に築かれている。
東西約250m南北約100mの城域に、最高所の東郭、中央郭、西郭と並んでおり、堀切で夫々隔てられている。
西郭は樹木が伐採され眺望は良い。堀切より東によじ登ると中央郭で倒木も多く鬱蒼としている。
【案内】 東岳川に架かる「瀬戸口橋」の北側の道幅が広く駐車できる[マップコード117 800 136*25]。標柱は東岳川左岸の道路横に建てられている[117 770 861*35](地図)。
戻って「瀬戸口橋」から右岸を表記番地を目指して約100m行くと、池との間に登り口がある(地図)。
登ると間もなく、右手に西郭切岸が見え堀切に着く。そこからよじ登って西郭に行くと東側と西側に土塁が残っている。
堀切より東に中央郭があり、東側に土塁が見られその先に深い堀切がある。その東に東郭がある。
【歴史】 藤原悪七兵衛景清(? ~ 建久七年(1196年)没)により築城されたと云われる。
建武年間(1334~36年)以来、土肥実重の居城で代々土肥氏が居城とした。
明応四年(1495年)伊東尹祐が奪い、その後島津氏の一族北郷忠相の所領となった。
天正十五年(1587年)、伊集院忠棟がこの地域を領し、倉野七兵衛・樗木主水などが居住した。
慶長四年(1599年)庄内の乱の際、倉野七兵衛・田中小兵衛・永野玄蕃らが守将となった。
元和元年(1615年)一国一城令により廃城となった。