平松城 (ひらまつじょう) (平松館) (市の史跡)
所在地 鹿児島県姶良市平松5636 2015.5.10
平松城 (ひらまつじょう) (平松館) (市の史跡)
所在地 鹿児島県姶良市平松5636 2015.5.10
説明板
重富小学校
石垣・城跡碑
重富小学校校舎・石垣
【遺構★★☆☆☆】
【案内】 姶良市立重富小学校(表記番地)敷地となり、正門左に「平松城跡」の標柱、右側に説明板が建てられ、周囲に往時の石垣が残っている[マップコード42 432 323*11](地図) 。
小学校の正門柱は鹿児島県庁の正門として使われた物を移築されている。
姶良市の史跡に指定されている。
【歴史】 戦国時代の天文二十三年(1554年)岩剣城で島津方と蒲生・祁答院(けとういん)方との激しい攻防戦が行われた。
この合戦で初陣を飾った島津義弘は岩剣城に在番する事になったが、山頂への道は険しく日常生活には不便で、平松城を築き居館とした。
義弘は慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い直後に、しばらく在城し慶長十年から翌年にかけて帖佐から平松城に移り、加治木へ移るまで居館とした。その後、島津義弘の夫人や娘・御屋地が晩年を過ごした。
元文二年(1737年)薩摩藩主・島津継豊は、弟の忠紀に越前島津家を再興させ、帖佐郷から脇元村・平松村・船津村・春花村・触田村(吉田郷)を分知して「重富郷」と名付けた。
以後、越前(重富)島津家の領主の館となり、一帯に麓と呼ばれる家臣団の屋敷が計画的に整備された。天明の頃に藩内初期の学校・振業館が建てられた。
維新に活躍する島津久光(斉彬の弟)も、若いころ越前島津家20代当主として居住した。明治維新後、重富村の役所や学校が置かれた。『姶良町説明板』より。