稲積山城 (いなづみやまじょう) (津原城)
所在地 山口県下関市王司神田四丁目 2019.5.10
稲積山城 (いなづみやまじょう) (津原城)
所在地 山口県下関市王司神田四丁目 2019.5.10
登城ルート
トンネル・標柱・登り口
南端虎口・浅い堀切
南の郭・社
主郭虎口・城跡碑
主郭・石碑
稲積山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【感想】 下関市王司神田四丁目の標高76mの山頂に築かれている。
南北2段の郭から構成され、南の郭に社が祀られ、主郭虎口に津原城址碑、北の主郭に由来文の碑が建てられている。切岸がよく残っている。
【案内】 中国自動車道「王司PA」東の県道33号線信号交差点から北に行き左折、西に行った中国自動車道トンネル右に「津原城跡登山口」の標柱が建てられている[マップコード557 796 032*78](地図)。その斜め向かいに駐車できる。
中国道の東側を登ってゆくと寄墓があり、東へ道なりに登ると城跡南端に着く。南端に浅い堀切があり、北に2段の郭があり、三角点が設置されている。
【歴史】 築城時期など詳細は不明であるが、周防国主大内氏の分流津原氏の居城と云われる。
南北朝時代の観応三年(1352年)十二月、南朝方の厚東武直が赤間関(甲山城・櫛崎城)に来襲した。
北朝方の大内弘世は、若山城主陶弘綱・稲積山城主津原善並等に2万騎を与え両城の救援に向かった。
永和四年(1378年)八月、火の山城を攻めた厚東武道に対し、大内弘世津原善是と杉重直(櫛崎城城代)に1万騎を与え討伐に向かった。
応仁元年(1467年)六月、応仁の乱が勃発、西軍に加担した大内政弘を総大将に、津原弘実・善勝・善次も京都に上り参戦したが、弘実と嫡男善次が相次ぎ戦死した。
西本願寺の蓮如上人に帰依した津原主計頭善勝は道西と名を改め、明応四年(1493年)稲積山城を廃して、東麓に善勝寺を建立した。