亀迫城 (かめさこじょう)
所在地 岡山県井原市西江原町 2021.4.9
亀迫城 (かめさこじょう)
所在地 岡山県井原市西江原町 2021.4.9
亀迫城山公園
南側の段
2郭・主郭切岸
北側の腰郭
主郭・大山文夫の胸像
主郭
亀迫城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高20m】
【感想】 甲山の北に連なる比高約20mの小山に築かれている。
頂上の主郭と南側に2郭が残り、北側に腰郭が見られ切岸が残っている。
南側に段々になった帯状の平坦地が見られるが、公園化に伴い多少改変されているようだった。
【案内】 井原市西江原町の亀迫城山公園として整備され、駐車場が用意されている[マップコード201 389 128*68]。
頂上の主郭には四阿や、法律家で戦後に市長3期を務められた大山文夫の胸像が建てられている。
南側に2郭があり、箱式石棺が展示され、北側に腰郭がある。
【歴史】 天文二年(1533年)から元亀元年(1570年)まで38年間、備中松山城主・庄為資と長男高資父子が西江原を支配していた。
元亀元年(1570年)鶴首城主・三村家親は毛利氏の援軍を得て備中松山城主・庄高資を討った。
この時備中を掌握しようと毛利元清は本郡へ兵を進め、この時亀迫城を築いた。元清は宍戸安芸守を守衛とし、家臣・木村平内と神田六郎兵衛を郡代として常駐させた。
元清は亀迫城を拠点に小田郡の中山城、船ヶ迫城、奥ノ城、を次々に攻略し、天正三年(1575年)ついに猿掛城主穂井田実近を攻め滅ぼして、猿掛城主となった。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた西軍に属した毛利氏は防長2国に減封となり、当地は徳川幕府の支配となり、亀迫城は廃城になった。