日知屋城 (ひちやじょう)
最寄地 宮崎県日向市伊勢ヶ浜194 2016.5.14
日知屋城 (ひちやじょう)
最寄地 宮崎県日向市伊勢ヶ浜194 2016.5.14
登城ルート
由来碑・城趾碑
西の曲輪・東屋
石段
古代遺跡
主郭
東の曲輪
日知屋城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 表記番地より東に行くと、公園駐車場が用意され、傍らに「日知屋城趾」、「日知屋城由来」の石碑が建てられている[マップコード136 258 878*13] 。
左手より登ってゆくと、堀切があり展望台のある「西の曲輪」があり、更に登ると鳥居があり下ってゆくと、海岸洞窟に「鵜戸神社」が祀られている。
戻って石段を登ってゆくと、虎口があり石塁が残る。さらに登ると頂上部に「古代メンヒルストーンサークル」がある。
その下段に主郭がある。主郭の東に「東の曲輪」があり、その南側に土塁が残っている。突端部からは日向灘に面した海岸の絶景が広がっている。
【歴史】 鎌倉時代末期から室町時代半ば頃までに、この地の地頭職であった伊東氏(工藤祐経の後裔)によって築城され、天正年間まで伊東氏の居城であった。
当初、塩見城に在って富高・塩見庄一円を支配していた土持氏に対抗するための重要な砦として、天然の地形を利用して築かれた。後に、土持氏を駆逐して塩見城が伊東氏の領する所となってからも北方の一大勢力であった。大友氏に対する拠点として門川塩見城と共に、重要であった。
伊東氏は祐国、伊祐の時代から、飫肥(おび)城の攻防をめぐって島津氏との確執が続いた。
その戦いで祐国が戦死した時、弟の日知屋城主祐邑は、大友氏と結んで伊東家の安泰を図り島津氏に当るべく画策したが、かえって一族の誤解を受けこの城内で暗殺された。『由来文』より抜粋。