一宇治城 (いちうじじょう) (伊集院城・鉄山城・鉄丸城)
最寄地 鹿児島県日置市伊集院町大田424-1 2014.5.11
一宇治城 (いちうじじょう) (伊集院城・鉄山城・鉄丸城)
最寄地 鹿児島県日置市伊集院町大田424-1 2014.5.11
一宇治城跡碑
南之城切岸
南之城
釣瓶城
神明城
ザビエル会見地の碑
一宇治城 神明城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 鹿児島本線「伊集院駅」前の県道24号線を南西に約900m行った交差点より、西に約250m行き右折、表記番地より300mほど登ると、「城山公園」駐車場がある[マップコード 147 167 153*30 ]。
標高114mの山頂付近に空堀でそれぞれ区切られた曲輪がある。南東に釣瓶城(みはらしの丘:地図 )、南西に南之城(野鳥の森 :地図)、中央東に中之城(野草園)、(わんぱく広場)、北に展望台(地上16m)や宣教師ザビエルとの「会見の地」碑のある神明城(かたらいの広場 )、北西に伊作城(花木園)と配置されている。
展望台からは東シナ海や伊集院市街、遠く桜島も望める。
【歴史】 鎌倉時代の初めに伊集院郡司の紀四郎時清によって築城されたとされる。その後、紀氏が四代続き、島津氏の一族伊集院久兼が城主となり数代続いた。
伊集院忠国が南朝のため義旗を挙げたのも当城であった。
本家の島津氏を凌ぐと言われた伊集院氏の権力を背景に拡充されたが、宝徳二年(1450年)三月、九代当主・島津忠国は伊集院一族を追放、以後、島津氏配下の城となった。
天文五年(1536年)三月、島津家中の統一を目指していた島津忠良・貴久親子は先祖代々の居城であったが薩摩国西部にあり不便であった伊作城から、薩摩国中央部にあるこの城に拠点を移し、鹿児島の制圧を目指した。
天文十四年(1545年)、北郷氏、樺山氏など島津氏の有力分家の支持を得た十五代当主貴久は、この城で薩摩国・大隅国・日向国三ヶ国の守護大名となり、悲願であった島津家中の統一を果たした。
天文十八年(1549年)に貴久と聖フランシスコ・ザビエルが対面し日本で初めてキリスト教の正式な布教の許可がおりた場所として著名である。
天文十九年(1550年)十二月、名実共に島津氏宗家当主となった貴久は拠点を内城に移し、この城は地頭の管轄下に置かれることになった。
初代地頭は島津右衛門大夫孝久である。永禄年間には町田久倍(ひさます)が地頭を務めている。江戸時代には薩摩藩内内でも重要な外城とされた。ただし、慶長以降には日常的に城を整備・管理していたという史料が無く、実質的には廃城になっていたと考えられている。
島津義弘が鹿児島城築城を進めていた息子・家久に対して反対し、一宇治城を推薦していたことでも知られている。