加古川城 (かこがわじょう)
所在地 兵庫県加古川市加古川町本町313 2017.9.24
加古川城 (かこがわじょう)
所在地 兵庫県加古川市加古川町本町313 2017.9.24
称名寺山門
堀跡
七騎供養塔
水路
加古川城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 加古川左岸にあった平城で、称名寺となり遺構は消滅している。堀跡と思える水路がある。
【案内】 JR山陽本線「加古川駅」の西約1㎞にある仏頂山称名寺(表記番地)境内となっている。
山門手前に説明板が建てられ、東から西にかけて水路がある。山門を入った左に「七騎供養塔」が安置されている。
【七騎供養塔】 正平五年(1350年)告げ口により都を追われ出雲へ落ちてゆく塩冶判官高貞が足利尊氏軍に追いつかれた時、弟六郎他郎党7人が高貞を討たせまいと、この場所で戦ったが全員討死した。それを追悼するため、文政三年(1820年)頼山陽の撰文書にて建立された。
【歴史】 寿永三年(1184年)、平氏追討の戦功により糟屋有季が、源頼朝から播磨国印南郡南条郷を与えられた。
承久の乱(承久三年/1221年)の後、糟屋有教がこの地に築城した。鎌倉時代には加古川城は播磨守護所で、守護代糟屋氏が在城した。
天正五年(1577年)十月、羽柴秀吉が播磨に入り、毛利氏討伐の軍議がこの城で開かれた。この時の12代城主であった糟屋武則は秀吉につき従って小姓頭となり、賤ヶ岳の戦いで武功をあげ七本槍の1人に数えられるなどの活躍を見せ、最終的には12,000石の大名に出世した。
しかし、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍に付いたため、領土を没収された。その後糟屋氏は断絶し、元和元年(1615年)六月十五日に破却された。
賤ヶ岳の戦いの7本槍(片桐且元・福島正則・脇坂安治・糟谷武則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰)。