萩城 (はぎじょう) (指月城 )(しづきじょう) (国の史跡・日本100名城75)
最寄地 山口県萩市堀内83−35 2013.10.13 2021.4.15
萩城 (はぎじょう) (指月城 )(しづきじょう) (国の史跡・日本100名城75)
最寄地 山口県萩市堀内83−35 2013.10.13 2021.4.15
内堀・本丸石垣
本丸・天守台石垣
天守台
潮入門跡・土塀
北櫓門跡
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
北の総門・土橋
外堀の船着場・土塁
萩城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 「萩資料館」(表記番地)に駐車場が用意されている[マップコード243 886 394*77]。南向かいに「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」があり、 北に200mほど行くと「萩城趾」の石碑が建てられ、指月公園の入口の土橋がある。
指月山(標高約140m)のある半島の南に外堀を設け、麓に内堀のある本丸がある。
南面にコの字型に堀・石垣があり北は山へ続く。広い土橋の先に虎口の石垣があり、本丸の南西隅に天守台が残っている。「志都岐山神社」(明治十二年建立)や「旧福原家書院」「梨羽家茶室」が保存されている。
東の内堀の切れた二の丸の海側には、潮入門跡と銃眼土塀が復元されている。北には船着場の「北櫓門跡」がある。山頂は詰の城であった。
二の丸の外の中堀は埋め立てられている(現在の疎水とは無関係)。
本丸東門跡から東約600mの外堀脇に「北の総門」と船着場が復元されている(地図)。
西に「旧益田家物見矢倉」(萩市堀内391‐1)や同じ通りに「旧繁沢家長屋門」があり、さらに西に「旧周布家長屋門」が保存されている。
二の丸入口近くに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(萩市堀内85‐2・国の重要文化財)が現存し、松下村塾(萩市椿東1537)や侍屋敷などがあり、観光名所となっている。また「萩博物館」(萩市堀内355)の南東に隅櫓が復元されている。
昭和二十六年(1951年)6月9日、国の史跡に指定され、平成二十一年(2009年)2月12日追加指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(75番)に選定された。
【歴史】 戦国時代、指月山に津和野城主・吉見氏が出城を構え、のちに吉見正頼の隠居所となった。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍総大将・毛利輝元は敗戦により120万5千石の太守であったが隠居を命じられ、家督を継いだ秀就は防長二国36万9千石余に減封された。
慶長八年(1603年)幼少の秀就に代わり、輝元は後見役として萩・山口・三田尻(防府市)の三ヵ所を城地の候補とし、幕府に裁可を求めた。これに対し幕府は、海に臨み要害の地である萩が良いとの回答をしている。
これは外様大名の雄、毛利氏を山陰の僻遠地に押し込める政策とも言われている。
翌年萩城建造に着手。指月山に連なる干潟を埋め立て、城地を建造した。輝元は、本丸御殿などまだ一部しか出来ていなかった十一月に、早々に入城した。慶長十三年(1608年)落成。平時に建設された城ではあるが、指月山に詰の丸を配するなど、戦時を意識した構えとなっている。
天保八年(1837年)に家督を継いだ第十三代藩主・毛利敬親(たかちか)は嘉永二年(1849年)、藩校である明倫館の改革を行った。
文久三年(1863年)幕府に無許可で藩庁を山口政事堂(山口市)に移し、萩城は藩庁としての役目を終えた。関ヶ原以降、僻地に甘んじた毛利家が、維新の志士に動かされ、討幕に動いた遠因があったと思われる。
元治元年 (1864年)、慶応二年 (1866年)の二回にわたり幕府軍による長州征伐が行われたが、敗退し幕府の権威は急速に落ちて行った。
明治七年(1874年)廃城令により天守・櫓などの建物は破却された。